謎の暗雲


「ねぇ、瀬梨」
「んー?」
「『はいねこきょう』って知ってる?」
「えー?」

 ソファに寝転がっていた瀬梨は、わざわざ身体を裏返してこっちを見た。
 俺の言葉に一々反応して、丁寧に返してくれるのが嬉しい。

「知らないけどー?」
「あ、そ」
「何で?」

 じっと見上げてくる、年相応とは思えない大きな目。
 真っ直ぐ見られると、どうしても言う事を聞きたくなってしまう。

「池袋発祥の宗教らしい。色々物騒な事があるからな」
「そうなんだ」

 俺の隣に現れてさらりと答えた化け物を、瀬梨は腹を見せたままきらきらとした目で見上げた。
 ……まずい。食われる。

「宗教って――」
「猫が何で腹なんか見せてるの」
「痛っ」

 ぺしりと腹を叩くと、呻くように彼はまた身体を反転させた。
 俯せで本を読む瀬梨、憎々しげな恨みのこもった視線が隣から。

「人さらいもするらしいから、外出の時は気をつけて」
「うん」
「出る時はできるだけ、俺かシズちゃんと出かけるといいと思う」

 ……シズちゃんを頼るなんて、本当は不満すぎて死にたいんだけど。間違った、「殺したい」、だ。
 でも、背に腹は変えられない。瀬梨の安全の為だ。
 俺だって、いつでも瀬梨と一緒に居てあげられるわけじゃないし。

「分かった? シズちゃん」
「手前に言われる筋合いはねぇ」
「分かったのかって聞いてるんだけど」
「当たり前だろ」

 あぁ、全くムカつく奴だ。本当は今すぐ殺してやりたいんだけど、瀬梨の為にも、うん。

「喧嘩すんのやめてよ。……あ、俺今日の夜、出掛けるから」
「――え?」
「1人で行けるから、大丈夫だよ」

 瀬梨は本に目を落としたまま、俺たちの方には一瞥もくれる事なくそう言った。






「……怪しくない?」

 冷めた夕食の前で、俺は漸く口を開く。
 不本意そうに向かいに座っている人も、渋々頷いた。

「いつの間にか居なくなったってそんなの有り得るのか?」
「有り得るよ――悔しいけどね。俺たちの監視をどうやってくぐり抜けたんだろう」

 瀬梨が夕食を用意していた事は覚えている。
 でも、それ以上はどうしたって思い出せないのだ。
 彼がキッチンからどうやって出たのか、どう玄関に向かったのか、そしてどう外に行ったのか。
 全く分からない。

「……瀬梨が「ラッキーキャット」って呼ばれる理由、何となく分かったかも」

 彼はおそろしく運が良い。
 いや、運が良いだけじゃない――その幸を活かすだけの頭脳を持っている。
 「学校の勉強」だけでは測れない知能。シズちゃんは全く知らなかったと言うけれど、当たり前だ。
 多分、瀬梨はごくごく普通にキッチンから出て、いつものように玄関に向かって、当たり前に出ただけなのだろう。
 それだけな筈なのに。

「俺たちがたまたま瞬きしたところ狙ったとかね」
「流石にそれはねぇだろ」
「まぁ物の例えだけど、別の事に気を取られてたとかね」

 キッチンの出入り口を監視していた俺の名誉の為に言わせてもらうが、瀬梨は通らなかった。
 「絶対」って付けてもいい。とにかく後者はない。
 前者も人間業じゃない的な意味で有り得ないけど。

「……とにかく、有り得ねぇ。捜すぞ!」
「分かってるけど――とりあえず夕食食べよう」
「そんな事してる場合じゃねぇだろ!」
「何か買いに行っただけかもしれないし」

 ……そんな顔しないでよ、シズちゃん。
 俺だってそんなこと有り得ないとは思ってる、大丈夫。

「……それに、いくら瀬梨の事が心配でも、拘束するのはよくない」

 本当は鎖で首と手と足を繋いで余計な物を装備しないように服を剥いでおきたいんだけど、ね。
 一歩間違えると「虐待」「監禁」になりかねないし。

「それはそうだけどな」
「シズちゃんが捜しに行って、俺が待機でどう?」
「待機かよ」
「だって2人で出てる間に瀬梨が帰ってきたら困るじゃん」

 そう言うと、シズちゃんは諦めたように見えた。
 とりあえず夕食をかきこむとすぐに立ち上がる。
 どうやら、本当に瀬梨を心配しているらしかった。

「……大丈夫だよ」
「あ?」
「瀬梨は絶対無事だから」

 まさかシズちゃんを安心させようと思って、そんな事を口にしたわけはない。
 多分、自分も心配なんだろう。
 ――口に出さなければ、押し潰されてしまうほどに。






「ただいまー」
「瀬梨! どこ行ってたの!」
「だから、外出」

 へらりと笑う、目の前の可愛いコは朝帰り。
 今まで何をしていたのか問い詰めたいが、何を言ってもかわされそうな予感がする。

「こんな時間まで出かけるとは思ってないから、心配したよ」
「何? 待っててくれたの?」
「そりゃ勿論」

 瀬梨は少し驚いたように目を見開いたあと、いきなり笑い出した。

「なに」
「ごめんね。メールしなかった?」
「届いてないよ」
「あぁ、ごめん」

 じゃあ今度から、ちゃんとメールするね、と笑いながら。
 どうもテンションが変だと考えていると、瀬梨は大きな欠伸を漏らした。

「……眠いんだ?」
「うん」

 俺は瀬梨を伴って寝室へ向かう。……俺だって寝てないよ。眠い。
 多分シズちゃんも寝てないだろうけど、それはそれ。
 瀬梨が帰ってきたから俺は、安らかに眠れそうだ。

「じゃあ寝ようか、瀬梨」
「うん」

 人々が、本格的に活動を始める前に。



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