お試しパック


 壁にぶつかりながら帰った。
 この場合の『壁』とはいくつもの意味があって、――人とか、物理的な障害とか、つまり壁だ。
 足元が覚束ないのもあっただろうが、それ以上に疲労していた――普段ならば、池袋と新宿を往復する事なんて何でもないというのに。
 というよりも往復しなければいけなかったのだが。
 今日は流石に、女神様も同情してくれたみたいだった。

「……ただいま」
「ん?」

 俺の手を引いたまま首を捻る。

「ここは俺の家なんだけど」
「……俺の所有物」
「嗚呼、成程」

 さして興味も無い様子で彼は一つ頷いた。
 そしてソファーに座らせる。

「しかしね……まさか君から、俺を頼ってくるとは思わなかったんだけど」
「……今日は、1人で家に居たらブチ切れて、商売道具全部壊しちゃいそうだから」
「――嗚呼、だから俺の家に」

 シズちゃんみたいな真似しないでね、と彼は言った。
 その瞬間――先程の言葉が、生々しく甦ってくる。

「……俺、さ」
「うん?」
「しずに告白されたんだ」
「……あ、そう」

 だから落ち込んでたんだ、と言って折原は俺にコーヒーを差し出す。
 カップは温かかった。けれど口はつけない。

「俺が言った時はこんなに揺さぶられなかったのにね」
「折原としずじゃ……俺の中での重みが違う」
「……酷いよね、本当」

 池袋で彼に出会ったのは幸いだった。
 足元が揺れた時に彼が現れ、家に行くかと聞いた。
 嫌がるだろうと折原は覚悟していたのだろう――俺が頷くと驚いたような表情をしていた気がする。
 動揺し過ぎると泣きたくなり、逆に冷静になるのだと分かった。

「俺……どうしたらいい?」

 こんな事を折原に聞いても意味がないのは分かっていた。
 別にたいした反応を要求しているわけではない、流れで聞いただけで――

「じゃあとりあえず、俺と付き合おっか。瀬梨ちゃん」
「……は?」

 思わず顔を上げた。

「恋人なのに苗字呼びは変だから俺の事は臨也って呼んで。あだ名付けてくれてもいいし」
「……いざや」
「そうそう。で、俺もこれからは瀬梨って呼ぶから」

 そういえば俺の苗字教えてなかった、と言うと要らないよと笑われた。

「どうせ聞いたところで、今に必要なくなるから」
「……それって、どういう」
「だって結婚するでしょ?」

 ――絶句した。

「まぁお互いの呼び方は普通でいいよね。変に凝ると面倒くさいだけだし。後はどこに住むかだけど」
「ま……待て! 俺がいつ結婚するって言った!」

 そう言うと、漸くいつもの瀬梨だねと彼は笑った。
 ――しかも俺、今訂正する箇所を間違えた気がするんだが……。

「じゃあ恋人から始めようか。あ、怖いならお遊びって事にしといてくれてもいいよ」
「え……?」
「多分瀬梨は、付き合った事ないでしょ?」

 それは勿論。

「ま、待って……『俺は』って」
「俺心広いからさ、好きな人が笑ってくれるなら何でもするし、何されてもいいって思うよ」

 そんな人だったっけ、と思案する。
 違ったような気がする――彼は少なくとも、無償の愛を人に注げるタイプではない。
 ていうかそんな善人、下手したら神みたいな人がこの世に存在するわけないと思う。

「……中途解約もおっけー?」
「俺としては不本意だけど……瀬梨がそう言うなら」

 仕方ないよね、と言って彼は肩を竦めた。
 俺は笑う。

「じゃあ、ちょっとだけ。お試しで」
「うん」

 それでいいよと臨也も笑った。












(本当は、そんな愛)
(この世に存在しないだろうけど)



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