『戦争なんて、失うことしかできないんだよ』
いつか誰かが、そう言った。
確かにそうだなと――痛みの走る肩を見ながら思う。
その先には、在るべき腕がなかったけれど――
それでも俺は、何となく納得しながら目を閉じた。
恋人が出て行ったのは、案外時間が経ってからだった。
彼女に酷い事をしているという自覚はあった。
『戦争なんて、下らないよ』
少なくとも、そう言ったのは彼女ではなかった。
旅に出よう。
声の主を探そう。
俺にそう囁いたのは、一体誰だったか?
失われた記憶を取り戻しに行こう。
朝になったら生活感の無い部屋で、俺はたった1人きりだった。
彼女が居る事で、俺は自分を保っていられた――いつ死んでも、おかしくなかったのに。
彼女は俺の元から去ったけれど、俺が彼女を忘れる事は絶対にないだろう。
君が居てくれたから、俺はまた帰ってくる事ができた。
そういえば随分昔、俺は男と暮らしていた事がある。
彼に、俺は恋愛感情のかけらも抱いていなかったけれど、慕われるのは悪くないと思った記憶がある。
――そうだ、そう言ったのは、彼だったかもしれない。
戦争に反対した彼を、殴って、逃げ出して、彼女と出会って、そして。
失うばかりだった人生とお別れしよう。
今は彼の名前すら思い出せないけれど、俺は彼に会いに行こう。
細い糸を手繰りながら、記憶を積み上げていくのも悪くはない。
さぁ、彼を捜しに行こう。
「……あれ?」
先に気付いたのは、向こうだった。
「ローラン……?」
――まぁそれも当然だ、俺は相手から声を掛けられるまで、気が付かなかったのだから。
彼は見違える様に変わっていて、そこらの女より(彼女より)ずっと綺麗だった。
「……あぁ、」
「すごい、久しぶり」
ぎこちない笑顔なのは仕方ない。
別れが最低だった記憶はある。
勝手に飛び出していった男が、また勝手に戻ってきただなんて、彼は一体どう思うだろう。
彼は眩しい日差しの中で、洗濯物を干していた。
「まさか、また会えるなんて……あ、上がってってよ。今これ干したら、行くから」
前のまま勝手は変わってないから、場所は分かるでしょうと言われる。
どうだったかな……俺は、あまり覚えていない。
それでも手足の動くように任せていればいずれ脳も思い出し、俺は此処に住んでいた、という確たる証拠を得た。
「ふふ。久しぶりだったでしょ」
でも、いつ帰ってきてもいいように、何も変えてないんだよ。
きっとそうなのだろうと思った、此処の全ては、俺の記憶通りしっくりくる場所に置いてあるから。
申し訳ないという気持ちが、一筋、俺の心に差した。
「今日泊まってく? 何もないんだったら。久しぶりにローランの話、聞きたいな」
「……あぁ」
無邪気な笑顔は、やはり記憶と被る。
嗚呼、此処は何も変わっていないのだ、時が止まった様に。
それが、いいか悪いか分からなかったけど、今の俺にとっては、凄く癒しだ。
……結局、俺の当初の目的は、何も果たされないまま夕飯の時間となった。
「……お前の作った料理、久しぶりだな」
「当たり前でしょ?」
くすくすと笑われる。それもそうか。
ただ、記憶にあるより格段に、味も見た目も良くなっていた。
ここ何年かで腕を上げたのだろう。
「やっぱり……安心する」
彼女の料理は下手ではないから、決して嫌いではなかった。
しかし、食べ慣れた彼の料理の方が、やはり安心はする。
『あぁ、俺は帰ってきた』という気分になるのだ。
「本当?」
彼は存外目を輝かせていた。
「嬉しい……」
目を細め、今にも涙を零しそうに笑うのは、いやがおうでも彼が自分以外との関わりを絶っていた事を俺に思い知らせた。
苦しい……嗚呼、苦しい。重たい。
彼の愛の重さも知らないで、俺は彼と同棲していた。
「じゃあ、帰る前に言ってよ。俺、沢山作って、食べられるようにしておくから」
「……あぁ」
彼は知らないのだ。
あの時とは違い、既に俺には逃げ場が無い事が。
「頼む」
あの時とは逆で、今は俺がここに逃げてきたという事が。
夕飯ののち、俺達は2人で風呂に入ったが案外何もなかった。
……いつだか、俺は男を好きにはなれないと言ったのかもしれない。
そう思うと俺の心の中では罪と罰とがせめぎあい、また苦しい顔をするから、彼に心配された。
「……どうしたの?」
一緒に風呂に入る時点で彼の事は嫌いじゃないんだと、俺はもっと早く気付くべきだったかもしれない。
彼の悲しそうな目を見ていると、俺は罪悪感にまみれ、彼を好きでないと錯覚してしまうから。
「……久しぶりだね。こうやって、2人で寝るの」
それは当たり前の事だろうと思ったが、俺に纏わり付く彼は嬉しそうなので、そうだなとだけ答えておいた。
その瞬間、デジャビュは俺にその先の行動を告げる。
そういえば、と思い、俺は彼の頭の上に手を載せた。
「……?」
そして、『いつもするように』俺は彼の頭を撫でる。
強く、弱く、緩急を付けると、彼は懐かしそうに目を細めた。
「……幸せ」
たったこれだけで幸せになれるのか、と俺は苦笑する。
だったらローランは幸せじゃないの、と唇を尖らせる様に問われ、俺は気付く。
――彼の名前がまだ、思い出せていない事に。
「……ローラン?」
嗚呼、俺の名前を呼ぶな、俺はお前の名前さえ忘れたというのに。
優しくするな、俺は酒を呑めば、必ずお前を殴ってしまうのに。
今日は摂取していない為、心持ち落ち着いている。
けれどこのまま過ごせば、いつまた俺は彼を殴るか分からない。
「……寝よう」
そうだね、ローラン、疲れたよねと。
腰から離れる手。温もりが遠くなる。
何故か俺は掴もうとして、口を開いた。
その瞬間。
「……レイシ、」
「!」
俺は言った。彼の名前を。
彼も心底驚いているようで、俺の背後で息を呑んだ後、微動だにしなかった。
俺はゆっくりと振り返る。
「そうだ……お前は、レイシだ」
「うん」
涙に震える声。
哀しくて、愛しく、俺はレイシを抱きしめた。
「だから嫌って言ったんだよ……ローラン……」
責めるような涙声が、耳元で言う。
求めた温もりはまだ俺を包まない。
「戦争は……失うだけだから……」
「! それ……」
――やっぱり、そうだった。
安堵と申し訳なさが心に宿る。
「……レイシ。俺は、お前のその言葉のお陰で、また此処に戻ってこれた」
「え……?」
「戦場で聞こえたんだ」
死ぬな、死んじゃ嫌だ、って。
片腕を失うという激痛の中で、俺はそれでも帰ってきた。
それは、彼を思い出したから……。
その時から既にぼやけていた彼の輪郭を思い出したからだった。
「ローラン……」
「だから」
もっかい1から、始めよう。
今度は俺も、お前を愛すから。
「……!」
肩を押して、目を見て言うと、レイシは抱き着いてきた。
「ローラン、」
喜んで、と。
今度は小さいけれど確かな温もりとともに、それを聞いた。
10-9/3
(そうだね、やっぱり)
(俺は戦争には反対だよ)