ジャアアァァァァ……
流しっぱなしの水道の音の中でカチャカチャと食器同士がぶつかる音。
泡だらけの皿やスプーンを流しっぱなしの水で洗い流すヒロト。
洗い流され綺麗さっぱりに濡れて光るそれら食器を受け取って布巾で拭いていく緑川。
園の皆で美味しく夕飯を頂いた後の、単調な流れ作業。
時折ぽつりぽつりと言葉を交わす以外にはこれと言った会話もない、淡白だけれど穏やかな後片付けの時間。
そんな中、唐突にその事件は起こった。
「いッ……!」
ヒロトの小さな悲鳴がその始まり。
同時にガタンッと何か重いものをシンクに取り落とした音と、落とされた何かが重ねてあった皿にぶつかってさらにガチャンと耳障りな音が緑川の耳に突き刺さった。
「ヒロトっ?どうした?」
慌ててヒロトに声をかけると、ヒロトは表情を歪めて左手を右手で押さえている。
覗きこんだヒロトの手、右手の指の隙間からジワリと滲み出てきた赤い液体に緑川はギョッと目を見開く。
そのままシンクの方に視線を移せば、白い食器たちの中に紛れて鈍い色で刃先を見せている包丁があった。
包丁に付着している泡は、不純物が混ざって白ではなくピンクになっている。
その状況で緑川はヒロトの悲鳴を始めとした事故の全貌をだいたい理解した。
「指切ったのか?ちょっと待ってて!薬箱持ってくるからっ、あ、手を洗い流して。洗剤ついてるだろ」
口早にそれだけ言い残して緑川はバタバタと薬箱を取りに台所を走って出て行った。
残ったヒロトは緑川の言いつけどおりに泡のついた両手を流水に晒す。
泡と一緒に後から後から溢れてきていた血液も傷口から流れていく。
十分洗い流し蛇口を止めた。
傷口の根元を抑えていると、切った瞬間に感じた熱いような痛みは消えたが、今度はジクジクと波のある痛みがヒロトを苛む。
血もまだ乾くことなく滲み続けている。
それからすぐに緑川が薬箱を右手に戻ってきた。
テーブルに薬箱を置いて消毒液と絆創膏を取り出す。
どこ怪我したの、と緑川がヒロトの左手を取り患部を確認すると、緑川はムッと眉を顰めた。
「薬指の付け根あたり怪我したんだ、随分器用なところを怪我したものだね」
もっともな皮肉にヒロトはしゅんと決まりが悪そうに、殊勝にしょげるしかない。
「皿を取ろうとして、包丁に気付かなかったん……っ?」
一応訳を話しておこうと事情を語ったヒロトだったが、それは最後まで言い切ることが出来ずに途中で息をのむ音に変わってしまった。
緑川が急に掴んでいたヒロトの左手に顔を寄せてパクリと薬指の付け根に吸いついたのだ。
ヒロトは驚いて抵抗もなしに固まってしまった。
かろうじて残っていた思考能力を総動員してパクパクと動かした唇に意味のある言葉を乗せる。
「みど…り、かわ?」
途切れ途切れでも名前を呼ばれた緑川はハッとしたように唇を患部から離した。
「す、すまんッ!血ぃ止めなきゃと思ったらなんか身体が動いてて…い、今消毒液つけて絆創膏貼るから!」
慌てた様子で緑川は一気に捲し立て、うろうろと動き回る視線は一定してヒロトの目を見ることを避けている。
宣言通りに緑川はテーブルの上の消毒液を引っ掴み、キャップを外すと、「少し沁みるよ」と前置きしてからヒロトの患部に液を垂らした。
ヒロトは予想していた液が沁みる痛みに堪えて表情筋を強張らせる。
少し経つとすぐに液は乾き、その上に緑川が絆創膏をぐるりと巻き付けた。
絆創膏はヒロトの左手薬指の根元を一周するようにして貼られた。
「これでよし」
一通りの処置が終了して満足げに鼻で息を吐いた緑川に、ヒロトが微笑んで礼を言う。
「ありがとう、緑川」
「どういたしまして。まだ痛い?」
問われて、ヒロトは軽く左手を上下に振ってもう大丈夫だと示した。
安心したように肩を落としながら、しかし緑川は少し語気を強め、責めるようにヒロトに言った。
「まったく……気をつけなくちゃダメだろ!よりによって左手の薬指なんて……」
怒気は孕んでいないが、不貞腐れたように口にされた言葉に、ヒロトが疑問符を頭に浮かべた。
「左手の薬指だと、何か悪いのかい?」
その疑問に緑川は信じられないとでもいうように目を見開いた。
おや、とヒロトが思う間もなく緑川は声を荒げて抗議した。
「何か悪いだって?悪いに決まってるだろ!将来、傷が残って俺があげる指輪が上手く填まらなかったらどうするんだよ!」
その台詞に、ヒロトはポカンと口と目を開けて顔を赤くして怒る緑川の顔を見つめた。
今、緑川が言ったことの意味がよく分からなったのだ。
俺があげる指輪?将来?何のことだ?
疑問ばかりが浮上して、思わずそれが声になって外に出てしまった。
「……え?」
ヒロトのよく理解していないことを示す声に、それを受けた緑川がまたヒロトの反応が理解できず、疑問の声を漏らす。
「……あ、れ?」
両者の間に落ちた沈黙。
二人とも疑問に疑問を投げ返され互いの思考に収拾がつかず、何も言うことが出来ずにポカンと間抜け面で見つめあっている。
ほとんどフリーズしていた両者の内、ヒロトの方がなんとか早めに回復し、緑川の言葉を自分なりに整理、解釈した見解を述べた。
「え、と…つまり、その緑川が俺にくれる予定の指輪?……て、もしかして、結婚指輪、のことか?」
左手で、薬指で、その上に指輪。
導きだせた答えはつまり、そうなった。
確認を取られた緑川はしかし、ブワワッと先程の赤みとは違う種類の赤で頬を染めた。
「え、俺はそのつもりだったんだけ、ど、……う、あ……ご、ごめん、俺、なんか勘違い…ていうか、うあ…」
穴があったら入りたいとでもいうように羞恥で耳まで真っ赤にした緑川がそれこそ目をくるくる回して上手く紡げない言葉に苦しそうに喘いでいる。
早口で冗談めかして、けれど失敗した調子で緑川は弁明を試みるが、言えば言うほどドツボに嵌まっていった。
「ほんと…俺、一人でなんか突っ走ってて…その、あは、あはは、結婚指輪とか…!そんな迷惑だよ、な!将来のことなんか…。すまん、本当に、ただ俺が一人で勝手に思い込んでただけのことだからさ!」
必死に言い繕うように並べたてられた台詞。
緑川はこのままヒロトの前から煙のように消えてしまえればとすら思った。
死んでしまいたいほどに恥ずかしい。
ヒロトと互いにそういう話をしたわけでもないのに、今現在二人が恋人であることを理由に、勝手に将来もずっと一緒で、結婚自体は出来ないけれど、一生を誓うのだと一人で勝手に思い込み、納得していたのだ。
ヒロトもそう思ってくれていると、確認もなしに確信していて、その確信に無自覚だった。
しかし、それが本当に緑川だけの妄想であったことを確認させられることになり羞恥で殺されそうで、居心地が悪い。
先程から黙っているヒロトはいったい今何を思っているのだろうか。
馬鹿馬鹿しい、勝手にそんなことを思いこまれて迷惑だと思っているのだろうか。
ヒロトが返すであろう反応が恐くて仕方なかった。
拒絶されたらどうしよう。
笑い話にしたかったけれど、今まで本気でそう思っていたことが突然崩れ落ちてしまい、上手くはぐらかすことが出来なかった。
今までずっと固まったままポカンと緑川を穴があくほど見つめていたヒロトがとうとう変化を表した。
ああ、終わった、笑い飛ばされて馬鹿にされる、緑川がそう確信して腹を決めた瞬間だった。
ポロリ。
ヒロトの丸く開かれた緑の目から、涙が一筋零れた。
「ひ、ヒロト!?」
驚いて緑川がヒロトの肩を掴む。
衝撃でがくりとヒロトの身体が揺れたが、ヒロトはそれには反応することなく、緑川に両肩を掴まれたままクシャリと表情を崩した。
「緑川が、そんなこと、思ってくれてたなんて、知らなかった…っ」
溢れそうになる何かに堪えるようにして短く区切りながら吐かれた言葉は、微かに震えていた。
それは拒絶ではなく、歓喜の感情による震えだった。
なぜなら今、ヒロトの顔は眉が下がり、クシャリと歪められているけれど、その口元は嬉しそうに笑っている。
顔も照れたように、緑川と同じくらいに赤く染まっている。
「俺たち、まだ中学生だし…そもそも緑川にはそんなの重いだけで……まだ早いと…今は俺たち恋人同士だけど、俺ばっかりがのめり込むぐらい好きなんだって、俺が勝手に一人で将来のことなんて思ってるだけで、お前には迷惑なことだって思ってた…」
そこ言葉を区切り、ヒロトはそのまま緑川に身体を寄せ、その胸に顔を押し付けた。
緑川はヒロトの肩を掴んでいた両手に先程よりも少し、力を入れる。
ヒロトは緑川の胸の布地をキュッと掴んで、フフ、と微笑んだ。
「だから、だから嬉しかった。そうか、お前も、ちゃんと考えてくれていたんだね」
微笑んだヒロトの顔が綺麗で、緑川がドキリと胸が高鳴るのを感じた。
もしかしたら抱いているヒロトにも緑川の胸の鼓動が感じられたかもしれない。
そんなドキドキした状態のまま、緑川はぐっとヒロトの身体を離し、先程まで泳ぎっぱなしでマトモに見れなかったヒロトの目を真っ直ぐに見て言う。
「じゃあさ、ヒロト、この絆創膏、婚約指輪ってことにしてもいいか?」
「婚約指輪?」
ヒロトが自分の左手を上げ、薬指に巻かれた絆創膏を見る。
確かにそう見えなくもなくて、くすりと吐息を漏らして笑った。
「ああ、いいよ。じゃあ、18歳になったら本物の指輪を」
柔らかな了承に、緑川は一世一代のプロポーズが成功したことを知る。
「もちろん。その時には、ちゃんとこの指にあう指輪を贈るから」
「待ってるよ」
そう言ってどちらからともなく触れるだけのキスをする。
きっと将来揃いのリングをしているであろう左手を、ピタリと互いにくっつけて、その時のことを思って肩を揺らして二人は笑いあった。





予約済みの薬指





(でも早く怪我は治しなよ。その時は絆創膏も取ること!)
(もったいないな、捨てるの)
(ばーか)







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