十センチくらいの薄いクリーム色をしたチューブ。アクセントにピンクゴールドの細いラインが横に二本入っている。
ぱく、と蓋を開ければ、ほのかにはちみつの香り。
チューブを押してとろんと出てくるクリームは、白く、瑞々しい。手に塗りこめば、潤いつやつやになって、思わず微笑む。
お洋服を触るから、仕事中にはハンドクリームをつけない。閉店し、一通り片づけやらを終えて、手を洗ったらつけることがここ最近の習慣。
本当は無臭のものにしようと思ったけど。香りって嗅いだその時の出来事と共に、頭に印象深く残るというどこかで聞いた話を覚えていて、香り付きのものにした。
ノボリさんとおしゃれをして、所謂デート。
楽しかった。いつもの私なら気付かないことを、ノボリさんが気付いて教えてくれたり。本当に真剣にしっとり潤うものとさっぱり潤うものを、どちらにするか真剣に悩んでくれたり。お茶請けではない、普通のお食事を向かい合って食べたり。ノボリさんが意外と大食いで驚いたり。先にドアを開けてくれたり、さり気ない気遣いをしてくれて、嬉しくなったり…。
…この香りを嗅ぐと、そのことを思い出す。最初に買って、それからずっとつけていたから、なおさらよく覚えている。
店も仕舞いにして、いつものテーブルに座って、そんなことを考えていたら、シキジカが近付いてきて鼻をすんすんいわせている。その鼻に手を近づけてあげれば、夢中で嗅ぎだした。鼻がくっ付きそう。
シキジカは、はちみつの香りが好き。ハンドクリームを買ってもらう時それを思い出したから、この香りにしたけれど。気に入ってくれたみたい。
ノボリさんとの時間は素敵なものだったけど…。その時のことがずっと頭から離れない。
シキジカがまだ嗅いでいる手を見つめる。
この手、ノボリさんと繋がった。自然に繋いでしまった。温かくて、優しかった。
夢みたいな時間だったな。
…やっぱり、人間って言うのは貪欲なのだな、と感じる。もっと、ノボリさんに会いたい。触れてみたい。そう思う。
ノボリさんの特別な人になりたい、とも思う。
ノボリさんとカミツレさんはきっと、特別な関係じゃないと思う。あんなに真摯な態度を心から行なえる人。もし特別な人がいたら、他の人と二人きりで出かけたり、触れたりすることはしないと思う。
…今までお話してきて感じた印象からの、私の勝手な想像だけど。
お付き合いしている人はいますか。素直にそう聞きたい。けど、もしいたら。身を引いて、一線を引いた「お友達」にならなくてはならない。
真実を知ることが怖い。
シキジカ。ずっと一緒にいるこの子。私が気を許せる、唯一といっても過言ではない子。私が見ていることに気付いて、見上げてくる。可愛くて、気が緩んでしまう。なんだか、泣けてくる。
どうしてこんなに怖いのか。色々なことを考えて、頭がパンクしそう。
シキジカを抱きしめる。自分と別の体温を感じると落ち着く。溜息を一つ。
…店を閉めたし。ちょっと出かけようかな。シキジカを抱きしめて落ち着いたけど、まだ頭はいっぱいいっぱいだし。
少し一人になってぼーっとするのも良い。
シキジカにちょっと出かけてくるね、と伝えれば、笑って頷いてくれた。一人で考え事をしたいって、伝わったのかな。一緒に行きたがらなかった。
頭を撫でてあげれば、目を細めて気持ち良さそうにしてくれた。
夜の気候は、もう夏を感じさせない。心地良くて過ごしやすい。
薄手の綿でできたカーディガンを羽織る。もう秋だな。
近くの公園に行こうかなとも思ったけど…どうしようかな。とりあえず、時間はあるから、ぶらぶらしようかな。
久々にカフェに行くのもいいかもしれない。
カフェと言ったら、結構前よく行っていた所がある。今のあるのかな。
そう思って、夜こそ輝いているライモンシティの中心街に出る。
明るい。ノボリさんと行ったところも中心街だったな。なんて、結びつける私の頭。まったくもう。我ながら重症だな。
そのカフェは地下鉄で二駅先、降りて徒歩五分くらいのところにある。電車も久しぶり。帰宅ラッシュの時間だから、満員だな。そんなに乗らないからそれでもいいけど。
ギアステーションに向かう。
ノボリさんの職場。けど、高い地位にいる人だし、ましてやサブウェイマスター。その辺でうろついているわけ無い。そう思って何も気負わなく入っていけば、人々が忙しなく歩いていて、その中に目立つ黒の後姿。間違いない。私、あれを直したもの。
なんで、いるの。こんなぐるぐる悩んでいる時に。
今は、会いたくない。幸い後姿だし、私自身そんなに背が高くない。人が結構たくさんいるから、こちらを見てもきっと気付かない。知らなかったふりをして切符を買って早く電車に乗ろう。
変な汗を掻いている。緊張。早く買わなきゃ。
切符売り場に行って、一番安いやつを買う。素早くちらっと電光掲示板を見れば、あと二分くらいで電車がくるみたい。ナイスタイミング。
急がなきゃ。
改札に向かおうと踵を返したら、目に入る白。あれ、これって…ノボリさんと同じコート。
やばい。
そう思って少し立ち止まったことが悪かった。
「あ、ナマエちゃんでしょ?覚えてるかな、ぼく、クダリ」
見上げれば、にこりと満面の笑みのクダリさん。
なんでサブウェイマスター二人がこんなところで、うろついておられるのですか…。
「ごめんね、引き止めちゃって」
「い、いえ。それよりクダリさんお仕事中ですよね…お時間は…」
「大丈夫。時間ちょっとあるから。ノボリももう少しで来るって」
「えっ…ノボリさんもお時間…」
「ノボリは休憩時間。呼び出しが無い限り時間あるよ」
「そうですか…」
「ふふ。緊張してるね。大丈夫だよ、心配することないから」
「…それはどういうことですか?」
「内緒!じゃあ、ちょっと待ってね!」
終始笑顔のまま、クダリさんはお話して、コートの裾を翻して出て行った。意味深なことを言い残して。本当に同じ見た目なのに、全然違う。相変わらず子供っぽい印象だけど、色々見通しているような。不思議な人。
ここはギアステーションの関係者以外立ち入り禁止区域。つまり、従業員のいるスペース。その中の、サブウェイマスター用執務室。
ちょっといいかな、来てくれる?とお願いされて、ちょっとくらいなら良いですよ、と答えたら、クダリさんに引っ張られるように連れてこられた。私、ここにいちゃいけないような気がするのだけど。
…それに。ノボリさんに会いたくなかった。どんな顔していいか分からないから。
でも。会いたいとも思う気持ちがあるのも事実で。
…悶々していても仕方ない。こうして連れてこられてしまった訳だし。クダリさん、ノボリさんに連絡してしまったらしいし。
少し落ち着いて、待とう。うん。
周りを見渡せば、白い壁紙につやつやのダークグレイの床。大きめな鉄製の机が出入り口の方を向いて、二つ並んでいる。両方とも書類やら本やらファイルやらで、雑多としている。その後にはコルクボードに色々な紙が貼ってある。それから、壁にハンガーを掛けるであろう突起。シルバーの時計。縦長い木製の黒いタンス。そしてこれも木製の黒い本棚。ぎゅうぎゅうに詰まっている。
私が座っているのは足つきの本革ソファ。これも黒。床の色より濃いダークグレイのプラスチックの机を挟んで、向かい側にも同じソファが置いてある。ここでご飯を食べたりしているのかな。机の状況を見ると、忙しそうだし。
ノボリさんとクダリさんはこんな場所でお仕事しているのか。
一通り見渡せば、少しは落ち着いてきた。こういう場所、入ったことがないから。興味津々で色々見ることができるから、ノボリさんのことばかり考えなくて済む。
本棚、見ちゃダメかな。バトルサブウェイの機密事項とかあったら困るから、見ないでおこうかな。それにしても本革のソファは良いな。吸い付くような本革独特の触り心地。気持ち良い。
ソファを撫で回していたら、かつかつと足音が聞こえてきた。ここの部屋の扉の前で止まる。
扉を見やれば、やっぱり。
「ノボリさん」
「ナマエ様。お待たせ致しました」
黒い制帽に、お直ししたあのコート。黒いスラックスに、黒い革靴。スラックスも前お直ししたものかも。瑠璃色のネクタイと腕章。白いシャツと手袋。コートとスラックスと靴と制帽がクダリさんと色違い。
初めて「サブウェイマスター」のノボリさんを見た。かっこいいけど、やっぱりコートのシルエットが可愛らしくも感じてしまうな。
ノボリさん、いつもより目つきが鋭い。仕事モードだ。また新しい一面を見つけてしまった。
ああ。やっぱり素敵だな。あ、挨拶しなきゃ。そう思って、立ち上がる。
「すみませんノボリさん。お仕事中にお邪魔してしまって…。少ししたらお暇しますから」
ノボリさんの目が和らいだ。優しい目。いつもの目。薄く笑みの形を作る口。
「お気になさらず。休憩時間ですし。それに、クダリに無理に連れてこられたのでしょう。申し訳ありません」
「そ、そんな」
「そのままお座りになって少々お待ちくださいまし。お茶を入れてきますので」
「あ、いや、お構いなく」
優しく笑いかけられた。あの時以来初めて会うけど、雰囲気が前より柔らかくなった気がする…。変に堅くないというか。
コートを脱ぎつつ、ハンガー掛けに向かうノボリさんの背中を見つめる。男の人だな。じわじわと緊張が蘇ってくる。
会えて嬉しいけど、会えてしまってどうしたらいいのか分からない。
どうしたらいいのかな。素直に、自分の気持ちを言えばいいのかな。
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