朝起きて感じた空気と気温。
じっとりとべたつく空気が常だったけど、それより爽やかに感じた。気分がいい。
うーん、と腕を伸ばす。良く寝た。すっきり。
やっぱり寝不足はいけない。身をもって知った数日前。
カーテンの隙間から漏れる光が、外はいい天気だと教えてくれる。
時間にちょっとだけ余裕があるから、ごろごろしてよう。
なんて思っている時に限って、シキジカがご飯の催促をしに来る。自分の意見を押し付けない子だから、催促の仕方は手とかに鼻をくっ付けてくるだけだけど。
体を起こせば、寝癖のついた髪が視界に入ってくる。
私を見つめていたシキジカは、嬉しそうに部屋を出て行った。
さて。一日の始まりだ。
暦上では残暑。もうすぐ夏が終わる。
シキジカの体毛も生え変わりつつある。新緑を思わせる色の中に、点々と落ち葉の色。
時の流れって、早い。
そう思えば、ノボリさんを思い出す。
去年の秋、うちに初めて来てくれてから、もう一年経つ。
振り返ればあっという間だったと思うけど、その時その時に感じたことは鮮明に覚えている。
一年前の私と今の私。少しは変われたかな。
他人との関わりが増えたから、そこから様々に考えることが出てきたこととか。
あと、欲張りになったかもしれない……なんて。
お洋服をお直しして、おいしい紅茶とお茶請けを頂きつつ、シキジカとのんびりと過ごす毎日。それがあれば十分だと思っていた。
今は、それ以上を求めている。
…たまご、焼けた。
ご飯を食べて、今日一日頑張らなきゃ。
…ノボリさん、来るといいけど、な。
「…来なかったね、ノボリさん」
シキジカはこくん、と頷いた。この子もノボリさんが好きだから、いつも来るんじゃないかって、どこか期待している。
今日は男性用のベストと、女性用のパンツのお直しの持込み。両方ともウールだった。秋の支度だな。
今まで空調を効かせていたけど、もう夕方。
空調を止め、窓を開ける。ちょっと蒸し暑いけど、汗は掻かない程度。もう一箇所開けて、風の通り道を作る。心地良い。
シキジカも気持ちよさそう。
さて、店じまい。
ミシンを点検。もう集中し過ぎないようにしなきゃな。
夕ご飯どうしよう。
今日は…すぐにやらなきゃならないお直しもないし、ゆったりできる。丁寧に料理が出来る。そうだ、お茶請けも作ろう。何を作ろうかな…。
少し考え事してしまった。シキジカを見やる。よし、いる。
扉を見る。 …人影…。デジャヴ。
とりあえず…お出迎え。
扉を開けて見上げれば、への字口。シキジカが駆け寄ってくる音が聞こえる。見なくても音で分かる。とても嬉しそう。
「ノボリさん! …あ、お待たせ致しました。申し訳ございません…」
「はい。こんな時間にすみません」
「い、いえ」
わ。会えて嬉しいと思えた。
今日のノボリさんは真っ黒のスキニーデニムにショールカラーのカーディガン。綿と麻の混紡で、ローンかな。腕まくりしている。インナーにラウンドネックの白いカットソー。
きっとお休みだ。
今日は何を飲まれるかな。
シキジカがノボリさんに近付いて見上げている。気付いたみたい、いつも通り屈んで目線を合わせて、背中を撫でている。目を細めて気持ち良さそう。
和む。結構好きだ。この組み合わせ。
私も真似して屈む。いつものテーブルに座っても、少し見上げるくらいで、立っていればもちろん見上げるノボリさん。目線を同じ高さで合わせることが新鮮で驚いた。
ノボリさんも目を見開いて驚いている。あ、目線を逸らされた。シキジカに向けられている。まだ気持ち良さそうに目を細めている。そんなにいいのか。まったく。
「ノボリさん、お時間ありますか」
「え、ええと。はい、もちろん。用事もございませんし。ナマエ様こそご都合は?」
「はい。お店じまいをするだけです。後の予定はありませんよ」
「…そうですか…」
目線は合わない。むしろさっきより目線が下を向いている。シキジカを見ていない。掻いていた手も止まっている。
なんだろう。考え事かな。
「…お茶、飲みますか?」
「あ、頂きたいですが……ナマエ様」
「はい」
「……まず、謝らなければ、ならないことがあります」
「…はい?」
「以前、ナマエ様が寝ておられた時に、作業スペースの方を拝見してしまいました…申し訳ございません…」
「そんなこと。気にしないですよ」
「あのブラウスを見てしまいました」
「…え」
…困った。だって、あれは。真似させてもらったものだ…。きっと、不快にさせてしまった。どうしよう。どう言えば。
素直に、ノボリさんに謝らないと。でも。怖い。ああ。目線が下を向く。ノボリさんを見ていられない。
「……あ…」
「お気になさらず。カミツレ様はそういったことは逆に嬉しがるでしょう。私も気にしませんよ。ただ」
「…ただ?」
「あれは、まだ一度も袖を通してないでしょう。深みのある緑色は、貴女様によく似合うと思います。それと、私やはり貴女様に、美味しいお茶やお茶請けのお礼がしたいのです」
思わず顔を上げれば、優しい瞳と蕩けるような笑顔…。屈んでいたせいで、いつもより距離が近い。どきり、とする。
シキジカが私の膝にぐいぐい鼻を押し付けてくる。
「なので、ご提案させてください。そのブラウスをお召しになって、私と一緒に買い物をしましょう。手が職業柄、荒れやすいでしょう。貴女好みのハンドクリームをお選びになってください。差し上げようと思いましたが、たくさんありまして…選んで頂ける方が良いと思いましたので」
次いで、どうでしょうか、と不安そうに伺うノボリさん。きっと…真剣に考えてきてくれたのだろう。揺れる瞳を見れば、分かる。
シキジカの目線を感じる。頭を撫でる。分かっているよ、シキジカ。
そんなノボリさんに応えるには、この返事しかないでしょう。
歩くたびに柔らかく揺れる生地。伴って、整えた髪も揺れる。ブラウスに合うよう、なおかつ、ノボリさんのお洋服に合うように、黒いミニ丈のフレアスカート。ファイユを二枚重ねているから、これも歩くたび表情が変わる。靴はストラップ付きの黒い本革のハイヒール。生足でなくて、きちんとストッキングも穿いて。細いゴールドチェーンのブレスレットをはめて。
ノボリさんの隣にいても、おかしくないかな…。
「お待たせ、しました」
アッサムの香りが漂う中、ノボリさんは立ち上がり私を見て、目を見開いた。そうして、はにかむように微笑んだ。
良かった。なんとか見れる感じかな…。
す、と右手を出される。
「さあ、参りましょうか」
返事と共に、私も左手を差し出し、重ねた。
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