「どうしたら髭切と同じになれるの?」

 君はいつだって純粋で真っ直ぐで。だから自分が歪んでいくのさえ気づかないんだ。


 あの頃のなまえはまだあどけない少女だった。どたどたと大きい足音で板の間を走りぬけては指導係の長谷部君を煩わせ、悪戯に障子に穴を開けては大目玉を食らう。あの頃此処ではなまえの大きな泣き声が響き渡らない日の方が珍しかった。

 朝から茹だる様な暑さで、憎たらしい程に燦々と太陽が照っていた。なまえはてんてんと小さな足跡を付けながら、全速力で僕の部屋に逃げ込んできた。水浸しで肌に張り付く着物も、纏まった髪からぽたぽた止めどなく落ちる水滴も気にせず「髭切!助けて!!」と僕の後ろへ隠れる様に屈みこむ。その後すぐ息巻いてきた長谷部君が僕の部屋にやってきた。

「やあやあ。そんなに息を切らせてどうかしたかな?」
「主、まったく貴女って人は。こっちへ来なさい。せっかく綺麗に掃除した縁側が水浸しですよ」
「嫌だもん!なまえ悪くないもん!長谷部が片づければいいでしょ!!」

 長谷部君の堪忍袋の緒がブチッと切れる音が聞こえた様な気がした。ギリギリ保っていたであろう澄ました顔が怒りで見る見る崩れ赤く染まり今にも頭の上から炎が飛び出てきそうだ。ぎゅっと僕の肩を握る手は先ほど取った大きな態度とは裏腹に僅かに震えている。

「長谷部君、暑いから頭に血が昇ってるんじゃないかい?ほら、少し深呼吸をして」
「髭切!お前がそんな態度で甘やかすからいつまでたっても主はお転婆なんだぞ」
「うーん。僕のせいにされるのは困るねえ。ああ、そういえばうんと冷やした麦茶がある。君も飲んで少し休むといい」
「飲む!なまえも飲む!」
「うんうん。分かっているよ。手伝ってくれるかい?」


 僕が長谷部君をのらりくらりと嗜めるもんだから、味をしめたなまえは怒られる度逃げる様に僕の所へやって来ては、じっと背中に張り付いた。



「ねえなまえ。今日は何をしたんだい?」

 きっと掃除に飽きて畑で蚯蚓探しを始めたであろうなまえの小さな手に付いた泥を丁寧に洗いながら聞くと、さっきまで不機嫌で頬を膨らませていたなまえはパッと顔を明るくさせて、そんな事より髭切!とこの前教えてあげたお手玉がやりたいと強請り始めた。引き出しに片づけていた淡い桃色のちりめんで出来たそれを二つ取り出すと、なまえは満面の笑みで受け取り、真剣にゆっくりと一個ずつ宙へ浮かせて受け止める事を繰り返した。その間僕はからからと小豆が軽やかな音を立てのをぼんやりと聞いていた。

「どうしたら髭切と同じになれるの?」

 純真無垢という言葉がぴったりなほどに、なまえは硝子玉みたいに目玉をキラキラさせて僕に問うてきた。質問の意味が分からなかった僕は反応が遅れて、落ちたお手玉を拾い上げて随分と間を置いてから、言葉を発した。

「ねえなまえ、どうして僕と同じになりたいの?」
「だって、だって、そうしたらずっと、一緒に居られるんでしょ?私髭切達みんな大好きだもん。あ、けど長谷部はちょっと嫌い」
「・・・うーん。僕も詳しい事は良く分からないなあ」

 彼女なりに、僕達と自分が違うと言うことは理解しているらしい。けれど、そもそも人間のなまえと僕達とでは元が違いすぎていて、かといってそれをなまえに分かりやすく説明するなんて術、僕には持ち合わせていなかった。長谷部君に頼むと又ややこしくなりそうだなと考えていると、遥か昔、僕が刀だった時の僅かな思い出がふと頭を過った。

「そう言えば昔、特別な龍の血を飲み続けると龍になれる。なんて話があったよ。あの時はこぞって商人が何処か遠い国の龍の血と言って様々な物を売りに来ていたなあ」
「とくべつなりゅうの血・・・?」
「そう。特別な血。もしかしたらなまえも特別な血を飲めば僕達みたいになれるかもね」

 冗談半分で言ったけれど、まあ、それをなまえが鵜呑みにするかも、って事、頭のどこかでは分かっていたんだ。





 なまえは、もう幼さを感じさせない女性へと成長した。いつの間にか泣きわめくなまえを叱りつける日々は消え去り、指導係をしていた長谷部君は立派ななまえを見ると誇らし気だった。たまに酒の席で漏らす愚痴を聞く限り実は寂しいようだけれどね。
 様々な刀達が入れ替わったりしたが、本丸自体は特に様変わりする事もなく月日を歩んでいる。あの頃から変わった事と言えば、なまえの部屋の奥に「医務室」という部屋が設けられたくらいだろうか。「医務室」と言っても、通常の手入れを行う部屋では無くて、もう手の施しようの無い者が安らかに眠れる様、なまえが考えた部屋だ。僕達の事を一番に考えてくれる主ならではの心遣いが感じられる。
 まあ、その扉の奥で何が行われているか知らない人はそう思うだろう。
 なまえの部屋にあるそこへの入口はいつも頑丈な鍵が付けられ、建前上管理を任されている僕となまえしか入れないようになっている。扉を開けると現れる薄暗い洞窟の様な通路を進み奥にある部屋に入ると、なまぐさい臭いが一気に鼻を刺激する。その部屋の中心でこくりと小さく喉を鳴らすなまえに近寄り、口元に出来た茶色いシミを濡れたてぬぐいで丁寧に拭いてあげる。なまえは苦しそうな顔を緩ませ僕に微笑みかけた。

「なまえ、今日はもうやめておいたらどうだい?」
「あと少しだけ。これだけ飲んでもう寝るよ」
「そうかい。明日は出陣があるんだろう」
「うん。そろそろこれが尽きちゃうから」

 真っ白い器に入った赤黒い液体を、残すことなく飲みほしたなまえは、満足したのか口の端を赤くしてふんわりと微笑んだ。僕はまたそれを丁寧に拭ってやり、眠りに付く様促した。
 あの子はいつだって純粋で真っ直ぐで。
 だから自分が歪んでいくのも気づかないんだ。僕がそれをじっと見届けようとしている事さえもね。

醒めぬまま堕ちて

back to top