※暴力的なシーンがあります。いろいろ痛い



 審神者として生活する事になってから、もう何か月過ぎただろう。初めての事ばかりで戸惑いっぱなしだったあの頃よりは少しマシになったと思いたい。
 書類から目を離し、縮こまっていた背筋をぐんと伸ばして一呼吸置く。筆を持っていた手をぶらぶらさせながら雪見障子から外を見れば、半円を描くお月さまが水面に浮かんでいた。ひらひらと儚くも妖艶に光るそれをぼんやりと眺めていると、失礼します。と控えめな声が襖の向こうから聞こえた。どうぞ、と応えると静かに息を引くような襖の音が聞こえ、その奥で長谷部さんが書類を片手に微笑んでいた。

「主、こちらの書類終わりました」
「えっ、長谷部さんもう終わったんですか?ありがとうございます」

 進捗が思わしくない私を見兼ねて長谷部さんが請け負ってくれた書類を受け取る。相変わらずの読みやすく丁寧な字がびっしりと書いてあるそれと自分のほぼ白に近いそれとを見比べて焦ってしまったのは内緒にしておこう。お礼を述べると、愚痴一つこぼさずに、なんなりとお申し付け下さい。と笑顔で言ってのける長谷部さん。以前よりマシになったのは、どれもこれも近侍として私を支えてくれる長谷部さんのおかげだ。長谷部さんが居なかったらこの仕事でさえ今日中に終わるはず無かっただろう。

「後は大丈夫ですからゆっくり休んで下さい」
「いえ、主のお傍に居ります。用がありましたら呼んで下さい」

 疲れているはずなのに、愛想の良い爽やかな笑顔を浮かべる長谷部さんには感謝してもしきれない。最近ずっとこんな調子で長谷部さんを遅くまで起こしてしまっている。そういえば、長谷部さんを休みに当てた事が最近あっただろうか。私は積み上げられた書類を雑に掴み、休暇の一覧が書いてある書類を探す。

「長谷部さん、ちゃんと休んでますか?」
「え?」
「考えたら私いつも長谷部さんを連れまわしているから」
「そんなっ。俺は、休みを取るなんて」

 長谷部さんは焦った様に声を出し、首を小さく横に振った。改めて近い日付の書類を見直すとやはり長いこと長谷部さんを出陣やら遠征やらと駆りだしていた。真面目な長谷部さんの事だ。きっと私が頼りないから今まで気を使ってくれていたのだろう。罪悪感に埋め尽くされた頭を抱えて、思わずため息を漏らせば、主?と心配そうな声が後ろから聞こえてきた。今からでも休んでもらおう。勢いよく振り向いて長谷部さんを見据えた私は、畳に額が付かんばかりに頭を下げた。

「長谷部さん本当にごめんなさい。ずっと出っ放しじゃないですか」
「お顔を上げてください。主、俺は休みなど必要ありません」
「そんな訳にはいかないです!なんで私気付かなかったんだろう。はあ、本当に自分が嫌になる」
「主、貴女は貴女のままで良いのです。嫌う必要はありません」

 こんな時まで私を立ててくれる長谷部さんの優しさと自分の情けなさで涙が出そうになった。長谷部さんに促され顔を上げた私は、涙をグッと堪えてすぐに休暇の予定を組もうと決めた。

「長谷部さんいつ休みますか?」
「いえ、ですから俺は」
「そんな事言わずに。あ、そうだ。どうせなら一週間くらい取りませんか?」
「・・・・・・」
「・・・長谷部さん?」

 急に俯き押し黙る長谷部さんの顔を覗き込むように屈みかけた次の瞬間、視界が反転した。急な事で驚きながら、無造作に押し倒されたのだと見下ろすようにして影の掛かった長谷部さんの顔を見ながら理解した。

「は、長谷部さん?」
「・・・俺を見限ったのですか?」

 いつも本丸で聞く様な穏やかな声とは違うさながら戦闘時の様な凛とした鋭い声が部屋に響いた。先ほどまで和やかだった部屋の雰囲気が一転して空気が張り詰め、気にも留めていなかった風の音が嫌に大きく聞こえた。見限る?なんの話か分からず聞き返そうとした時、それを遮る様に長谷部さんの手に首を締めあげられた。

「ぁっ・・・」
「俺を手放すおつもりで?」

 喉が潰されて話す事すらままならない。彼の手を退け様と伸ばした腕はいとも容易く払われしまった。喉奥を重く締め付ける圧迫感から早く逃れたくて動いた腕は何度も宙を掻く。
 どうして。どうして長谷部さんがこんな事をするの。
 淡い藤色の冷やかな視線と目が合うと無意識にびくりと肩が震えたのが分かった。

「俺は良いですよ。このまま此処で二人で死んでも。貴女と放れるくらいならそれを望みます」

 長谷部さんは本気だ。みしみしと絶えず首が悲鳴を上げ、少しずつ意識が朦朧とする。涙で歪んだ視界で長谷部さんが近づいてくるのを捉えた。耳元に吐息が掛かり、それに反応した右上半身がぞわりと気味悪い感覚に襲われる。彼の髪が煩わしく頬を撫でるそんな些細な事でさえ怖く感じた。嗚呼、怖い。

「本当は俺だってこんな事したくはないんです。どうです、考え直して下さいますか?」

 ほのかに甘い声が耳を擽る。生きたい。その一心で必死で首を上下させた。きちんと動かせているか不安だったけれど、どうやら長谷部さんに通じたらしく次第に首の圧迫感が薄れた。解放された私は咳き込み、嗚咽する声を漏らしながら荒い呼吸を繰り返す。酸素を少しでも多く取り入れようとだらしなく開きっぱなしになった口の端からは涎が零れ落ちて、畳にじわりと沁み込んだ。
 呼吸が整わないうちに長谷部さんがまた私に手を伸ばしてきた。怯えながらも、それから逃れる力すら残っていなかった私は、恐怖から強く瞼を閉じた。しかしその手は予想に反して優しく、上から下へ、規則正しくゆっくりとしたスピードで私の背中を擦ってくれた。それは、いつも私を助けてくれる大きくて暖かい手だ。空いた手で、乱れて額に張り付いた髪を取り払われる。開けた視界にはいつもの長谷部さんがいた。口の端から頬へと伝った涎を長谷部さんが指で掬い取り口に含んだ。ぼんやりとした意識の中で、何故か彼の指先から視線を外す事が出来なかった。指が離れると形の良い唇は綺麗に半月を描き、水面に浮かんだあの月の様に儚く妖艶な笑みを作りだした。

「明日は何をしましょうか。ご随意にどうぞ」

 これは夢なんじゃないかと思う私を嘲笑うかの様に、首が熱を帯び痛みを放った。

(150325)

光の指さない道

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