真っ暗。
 目が覚めたら、私は真っ暗な空間に一人ぼっちだった。次第に暗さに慣れた瞳で捉えたのは見覚えの無い部屋だった。身体が尋常じゃ無いくらいだるいと気付いたのはその後すぐで、脳味噌をまるで除夜の鐘の様にゆっくりと余韻を持ちながら叩かれている様なそんな鈍い痛みで支配してされていてそれが次第に質量を増していた。身体を起こそうとしたその時、ドアの開く音が聞こえ、重ねて駆け足で誰かが近付いてくる音が部屋に響く。暗がりにぼんやりと映し出されたシルエットと私の目が合うと、橙色の明かりが灯る。その光で浮かび上がったあのシルエットの人物は柔らかく微笑んでいた。

「なまえ、良かった」

 ふんわりと優しい声が聞こえる。とても綺麗な声だけれど、何故この人は私の名前を知っているんだろう。

「・・・・貴方は誰?」

 私がそう問うと、その人は少し目を見開いて驚いているようだった。けどすぐにまた優しい笑みを浮かべて、もう少し眠りな。と囁いた。もしかするとそれが何かの魔法だったのかもしれない。そう思うくらい私はすんなりと眠ってしまった。


「もう起きてたんだね」
「おはよう、精市君」

 彼が精市君だと認識して2カ月が経とうとしていた。私が彼を知ったのは2カ月前の事なのに、実際はずっと昔から彼と知り合いだったのだという。それも婚約者という間柄で。
 今朝も彼は朝日が昇ると私の部屋にやってくる。慣れた手つきで窓際に置かれた花瓶を手に取り、枯れかけたお花を捨てて新しい水を入れ淡い綺麗な色の紫陽花をそこに差した。私は上半身だけ起こしてその様子を見る。朝日に照らされた精市君の髪はきらきらしていた。それが終わると彼は私のベッドの空いているスペースに腰掛けた。

「いつもありがとう。ごめんね」
「ごめんは言わない約束でしょ。痛みは無い?・・・そう良かった」

 私が頷くと精市君はふんわりと柔らかく微笑んで、マッサージを続けた。こうして毎朝、彼は私の右手をマッサージしてくれる。ガチガチに固まってしまわないようにとお医者さまに勧められたとか。

 私は交通事故に巻き込まれ右腕を骨折して神経まで切ってしまったらしい。そして事故のショックで一部の記憶が消えてしまった。事故のことも覚えておらず、この優しい精市君の事さえ知らなかった。覚えていなかった。優しい彼氏さんだね、と病院で常々看護師さんに言われた。そう、彼はとても優しくて素敵な人だ。私にはもったいないくらい、素敵な人だ。利き手がこんな状況になったのに今まで何不自由なく生活出来ているのは精市君のおかげ。朝になると手のマッサージをしてくれて、顔を丁寧に拭いて髪も毛先まで梳かしてくれて、お腹が空いたと思えば言う前にご飯を準備してくれ、お風呂にだって入れてくれる。自分でできる事はするからと断ったけど、彼は頑なにそれを許してくれなかった。勿論最初にお風呂に入れてもらう時なんかは恥ずかしさでいっぱいだったけど、慣れてくると次第に羞恥心は無くなり、申し訳ないとは思いつつも面倒くさがりな私にとっては居心地の良いものでしかなかった。そんな私を精市君は嫌な顔一つしないで受け入れてくれる。
 このままずっとこの調子で精市君に身の回りの事を世話して貰うなんて出来ない。そう思ってリハビリを頑張ってはいるけれど、依然として動く事の無いこの手に苛立ちが募るばかりだった。手術は成功したとお医者さまは言っていたけど私はいつも焦りを抱いていた。指先を動かそうとしてもただ僅かに震えるだけ。物を掴む事も勿論出来ない。たかが手の一つで大げさなと思われるかもしれないけれど、その手が今まで通り動かないというのはとても怖い事だ。
 リハビリをするときはよく暖めてからね。とお医者様に言われていたから、私はお風呂の時間に手を動かしてみようと思った。湯船に浸かっている時間は精市君も席を外すので彼に迷惑を掛ける事もない。絶好の機会だと。お風呂で十分に暖まったであろう右手の指を左手で曲げようとすると激痛が走った。その痛さに思わず声を荒らげそうになるのを抑えて、私は小さく震えるだけの手に集中する。けど駄目だった。痛さに対する恐怖に立ち向かう事が出来なかった。手が動かない悔しさと怖さに私の目頭は熱くなった。涙が頬を伝い、ぽちゃんと音を立ててお風呂に染み込む。噛みしめても喉の奥から漏れ出てくる声に精市君はすぐ気付いたらしく、浴室のドアが開くや否や私は心地よい暖かさに包まれた。

「精市君、服が」
「うん、大丈夫」
「・・・・ねえ、精市君っ、私っ」
「大丈夫。君の手はすぐ元通りになるよ。ならなくても良い。ずっと俺がこうして君の傍にいるからね」

 彼の紡ぐ言葉一つ一つが暖かくて、私は幸せで満たされた。彼はすごい人だ。私の不安を一瞬で拭い去ってくれたんだから。



 ある晩夢を見た。車が絶えず通る大きな通りの歩道で、私は数歩先を歩く精市君の背中を追い掛けていた。不思議な夢で私は他人事の様にその様子を空から眺めていた。追いかけても精市君はその足の速度を緩める事は無くて、私は息も絶え絶えにしてやっと彼の服の袖を引っ張った。振り返った精市君はいつもの優しさが全然無い、冷たくて鋭い眼差しで、私は思わず息を飲んでいる。我に帰ると口を開き、悲痛な表情を浮かべて彼に何かを訴えているようだった。けれどその声は雑踏や車の音に掻き消されて私まで届かない。気になった私は浮いているのか歩いているのかよく理解しないまま二人に近づこうした。その時、ずっと口を閉ざしていた精市君が重々しく口を開いた。言葉は相変わらず聞こえない。けど彼は怒っている。原因は私だ。一体何をしてしまったんだろう。あんなに優しくて温厚な彼をあそこまで怒らせるなんて、私はきっととんでもない事をしてしまったんだ。視線の先に居る私は精市君に強引に肩を掴まれ覚束無い足取りで車の行き交う車道へと向かっていく。一体何が起こるんだろう。戸惑っている間にも、二人と車道の距離は縮まるばかり。車道がすぐ目の前の距離に立つと精市君は私を前に立たせた。そっと肩を抱き、耳元で何かを囁く。次の瞬間私の身体は前に向かって大きく動いた。嗚呼、駄目。私の身体が車が接触する直前、私は怖くなって目を瞑った。

 夢から醒めた。いつもの天井が目の前に広がり、子犬の懐のような暖かくて柔らかいあの毛布が私を包み込んでいる。空はまだ薄暗く今が日の出前である事を知らせていた。先ほどの夢を思い出す。考えたくは無いけれどいつまでも頭から離れなかった。



「なまえ、また眠れないのかい?ホットミルクを作ろうか?」
「ねえ、精市君」
「ん?」

 精市君は私を殺そうとした?
 あの夢を見た日の朝、そう訊いてみようと思ってた。あの夢は現実なような気がして仕方無かった。その考えは日に日に強くなってきて私を恐怖に陥れる。そのせいなのか最近はきちんと寝る事すら出来なくなってしまった。未だに動かない右手を精市君が優しく撫でる。この手で私の背中を押したんだろうか。そう考えると顔が強張りそうになる。不自然な笑顔にならない様にと引き攣りそうな頬に細心の注意を払う。

「・・・・あのね、甘いのがいいな」
「ハチミツをたっぷり入れるよ。待っててね」

 結局私は訊けなかった。
 彼の笑顔が偽りなんて信じたくない。


救いのないお伽噺

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