誰もが浮かれる夏休みに突入したのだけれど、私は夏期講習でほぼ毎日の様に学校へ行っていたおかげでまったく休みの感覚が無かった。いつもなら昼夜逆転でカレンダーを見ないと何曜日かさえ分からなかったのに、そんな事は一切無かった。何時ものように校庭を歩いているとテニス部のボールを打つ音が聞こえて、何気なしにフェンス越しでコートを見た。そこにはヘアバンドを付けてテニスをしている幸村君が居た。教室で見る彼となんら変わりない完璧な姿だった。ラケットを握って立つ姿も、ボールを打つ仕草も、後輩にだろうか指示を出している所も全てがやはり神の子と呼ばれるのに相応しいと感じた。私はいつしかそんな彼に魅入っていた。一瞬幸村君がこっちを見た気がして慌てて止まっていた足を動かし歩き出した。学校へ入る前にもう一度テニスコートを見た時は彼はテニスに集中しているようだった。
 講習会は午前中で終わり、帰る時もまだテニス部は練習をしていた。私なら5分と持たないだろうこの暑い中、あんなに走り回ってよく倒れないものだと感心した。

 そんな夏休みのある日。いつもより暑くて帰るのが嫌になってしまい、用事は無かったけれど冷房の効いた図書室で少し時間を潰そうと考えていた。私以外に生徒は居らず、司書教諭の先生もお昼で席を外していた。外を眺めるとテニスコートが見える。もう終わったらしくコートには片づけをしている人達がちらほら居る程度だった。何気無くカウンター前に立てかけてあった大きな本を手に取る。植物の図鑑のようで、パラパラとページを捲ると見たことのある花無い花の写真がずらりと並んでいた。こんなの借りる人居るのかな。そう思い貸し出しカードを眺めるとやはり借りている人は少なく、3行の中の見慣れた名前に反応した。

「幸村君だ・・・」
「何?」

ん?と思い、入り口を見ると幸村君が立っていた。私は一瞬呼吸が止まり心底驚いた。

「ゆ、幸村君?!」
「うん。そんな幽霊でも見たような顔しないでよ」

 そう言って笑いながら幸村君は図書室を入ってきた。ジャージを着た幸村君は図書室には似つかわしく無くない感じがした。

「あれ、先生は?」
「お昼で居ないみたい」
「そうか。みょうじさんは何してるの?」
「特に用は無いんだけどね、暑くて帰るの嫌だったから暇つぶし」
「なるほど。確かに今日は暑いもんね」
「部活も大変でしょ?」
「うん。何人か気分が悪くて休ませたりしたよ」
「うわー、やっぱりそうだよね・・・そういえば何か本借りるの?」
「いや、たまたま前を通ったらみょうじさんが見えたからさ。あ、そうだ。よかったらこれ食べない?」

 そう言って幸村君は手に持っていたビニール袋を広げて私に見せてくれた。覗きこむと中にはカップアイスが二つ仲良く並んでいる。私が元気に返事をすると近くの椅子に座り、袋からスプーンとアイスを取りだしてくれた。どうぞ、と言って机に並ばれたそれはとても冷たくて思わず両手でそれを掴んだ。蓋を外してスプーンですくい口に含むと、濃厚なぶどうの味とひんやりとした冷たさが口いっぱいに広がった。さっきまでもやもやと暑かったのに、すーっとその熱が消えていく。

「んー。美味しい」
「ならよかった」
「あー・・・・ますます帰るのが嫌になってきたよ」
「夕方くらいまでここに居たら?今よりは涼しくなってるはずだよ」
「なるほど。そうしようかなあ」

 宿題も鞄に入れてきていたし、このまま涼しい所でやった方が捗りそうな気がしてきた。暫く二人でアイスを食べていたけど、幸村君は半分しか食べずに立ち上がり、ゴミを袋にまとめ始めた。もう帰るのかな。そう思って鞄から財布を取り出した。

「あ、お金。いくらだった?」
「いらないよ。俺の奢り」
「ううん、出すから教えて」
「・・・じゃあ。夕方にジュース買ってくれないかな?」
「夕方?」
「うん。俺これからまだ練習あるからさ」

 そう言って幸村君は外のテニスコートを指差した。立ち上がって見ると、先ほどと違いコート整備をしている人やテントで雑談していたり、楽しそうに打ち合っている人の姿が見えた。まだ練習あるんだ。

「じゃあ私ここで宿題してるから終わったら行くよ」
「ありがとう。じゃあ、また後でね」
「うん。頑張ってね」
「みょうじさんも勉強頑張って」

 そう言って幸村君は、袋とアイスを手に図書室から出て行った。私は残りのアイスをまた食べ始めた。そういえば幸村君、なんで校舎まで来たんだろう。職員室にでも用があったのかな。アイス誰かにあげるつもりだったのかな。ここで私を見つけてしまったから嫌々くれたのかな。本当に貰ってよかったのかな。などと次から次に疑問が浮かび心配になってきてしまったけれど、図書室は飲食禁止なので先生に見つかってしまう前にと食べきった。
 元々暑さのせいで食欲が無かったからアイスだけで十分お腹が満たされた。午前中頑張り過ぎたからか、宿題をする気分には全然慣れなくて窓際のカウンター席でテニスコートを眺めながら時間が過ぎるのを待っていた。時折、幸村君がこっちを見ているような感じがしたけど遠すぎてその真意は分からず、目が合ったかと思いきやその視線はすぐコートへと注がれていた。あまりにもテニスコートばかり見て何もしていない私に先生も気付いていたようだが、特に注意はされず本を整理していた。私の他にも人は居たが、比較的静かに時間が過ぎて行った。次第にじわじわと眠気が襲ってきて心地よい温度と静かな空間で自然と瞼が閉じていった。


「・・・・ん」

 いつの間にか寝てしまったらしい。何一つ書かれて居ないまっさらなノートが目の前に広がり私は慌てて時計を見た。もう17時になる所で人の数も減っていた。私は幸村君との約束を思い出してコートを見る。そこにはもう誰も居なかった。しまった。私は大急ぎで開いたままのノートで筆箱を挟んで鞄に突っ込み、帰り支度を始めた。その時隣に人が座っているのに気付いた。上体をこちらに向けているらしくワイシャツが正面で見えて上へと視線を移すと、なんと幸村君が頬杖を付いて私を見ている。

「幸村君?!!」

 しまった、と急いで口に手を当てたが、時すでに遅し。図書室中の目が一気に私に集中した。誰にも聞こえないような小さい声で謝罪して、いそいそと片づけを続けた。カチッと鞄の止め金具が軽やかな音を立てると、幸村君が立ち上がり控えめに声を掛けてきた。

「行こうか」
「うん」

 図書室を出ると、まるでサウナに入ったみたいに全身がべたついた。さっきまでの涼しさは何処へやら。温度の違いにがっつりと体力が奪われていく。けど、隣を歩く幸村君はそんな事無いみたい。いつも通り涼しい顔をしている。

「幸村君、ごめんね。起こしてくれたらよかったのに」
「来ないから行ってみたら、まさか寝てるなんて思わなかったな」

 幸村君は肩を上下して思い出し笑いをし、続けて話した。

「宿題も全然進んで無かったでしょ」
「う、うん」

 幸村君の鋭い指摘に頷くことしか出来なかった。幸村君は余程面白かったようで無邪気な笑顔を浮かべている。笑われるのは嬉しくないけど普段とはちょっと違う子供っぽい幸村君の表情が見れたのは新鮮だった。昇降口近くの自販機前を通り、慌てて鞄を開ける。

「あっ、幸村君、何がいい?」

 自販機を指差しながら問いかければ、幸村君は一瞬驚いた様な表情をして、微笑んだ。

「覚えててくれたんだね。じゃあ、緑茶お願いしようかな」
「分かった。わたしも同じの飲もうかな」

 お金を入れてピッとボタンを押せば、重々しい音を立てながらペットボトルが落ちてくる。持つとぼやけた冷たさが手を刺激した。そこで飲んで行こうか。と幸村君に昇降口前に設けられたスペースへ誘われて二人でソファに腰を下ろした。

「じゃあ、いただきます」
「あ、どぞどぞ」

 なんだか不思議だ。
 だってあの神の子、幸村君とこうして一緒に座ってお茶を飲むなんて。こんなシチュエーション、いったい誰が想像しただろう。もしかして夢だったりして。ぼんやりとそんな事を考えて軽く頬を摘まんでみたけど地味に痛さが伝わってきて、それによって現実なんだと知らされる。

「何してるの?」
「へ、あ、いやあ、なんか夢だったりしてって思って」
「え?・・・ははっ、なんかみょうじさんって面白いね」

 くすくす笑う幸村君の笑顔は素敵だった。あまりにも素敵過ぎるから本当に神の子なんだなって思った。
 それから私の講習の話しになった。今日は誰が一緒に受けたのか、何をしたのか、本当に他愛の無い話。それでも私は嬉しいと感じていた。幸村君とお喋り出来るのがすごく嬉しいと。それからテニス部の話もした。真田君は部活動でも変わらず真田君で、二年生には期待のエースがいるらしい。部長だから幸村君が一番強いの?と訊ねると、もちろん。と自信に満ちた表情で答えてくれた。

「良かったら・・・・試合、見に来ない?」
「え・・・」

 幸村君の話を聞きながらぼんやりとテニスの試合を見てみたいなと考えていた私は、もしかして幸村君は人の心を読む力でも持っているのかと驚いた。そんな私の顔を見た幸村君は小さく笑って続けた。

「全国大会、見に来てよみょうじさん」

(20151023)

丘の上のアガパンサス 中

back to top