観月:大学1年生
母が来ると言っていたから予定は入れずに早めにアパートに帰った。鍵は渡してあったが、一人で待たせるのは気が引けたから。玄関の靴を見ると、母親のとは俄かには信じ難いとても華奢なミュールがあった。薄いクリーム色をしたそれを見て姉二人のどちらかだろうと予測した。気持ちいつもより早足で部屋に向かうと、扉の向こうからテレビの音が僅かに漏れていて人の気配を感じさせた。扉を開けると冷たい風が足元を包み込み、テレビの音に混じって笑い声が聞こえた。声の主は僕に気付くと笑うのを止めてくるっと体ごとこちらを向いて、にっこりと笑う。
「あ、はじめおかえり〜」
扉の向こうに居たのは、母親でも姉でも無い、あの人だった。
「なまえ・・・さん」
動揺が顔に出ていないだろうか。僕の声は震えていないだろうか。そんな不安に襲われながら部屋の中に足を踏み入れた。自分の部屋なのに、まるで初めての場所に行くかのように緊張していた。そんな僕とは裏腹に、なまえさんは麻生地の青い大きなチェック柄が爽やかなワンピースをひらりとさせて軽やかな足取りで部屋の中を歩き始めた。
「部屋綺麗だねー。ザ・はじめって感じ」
けらけらと笑う彼女は、硝子のキャビネットへ収納されたティーカップを興味深そうに見ていた。ゴホッと小さく咳払いをして、絞り出すように声を出した。
「な、何故此処に?」
「ほら、星野のおばあちゃん居るでしょ、あんたの隣の。朝畑仕事してたらいきなりぎっくり腰になって入院する事になっちゃってさ。その準備でおばさんバタバタしてたから代わりにって頼まれたの。まりも仕事だったから」
「・・・なるほど。・・・余程酷いんですか、具合」
「大丈夫らしいけどねー。ただ一人暮らしだからさあ、何かあったら困るじゃん?」
昔からの聞き慣れた訛りはまるで実家に帰ったような感覚にさせられる。
何も無い。家があって、畑があって、田んぼがあって、ご近所さんが居て、ただそれだけの小さな世界。なまえさんはその小さな世界で、家の仕事を手伝っている。僕の二番目の姉と同じ年の彼女はもう成人した立派な大人だ。何処にだって行く事の出来るはずなのに、あの世界に残る事を決めた。年々少しずつ老いていく両親から離れる訳にはいかないのだと。前見た時より痩せたか。心なしか腕もうっすらと筋肉が付いた様な気がする。血の気さえ感じさせないほど白かった肌はもう面影すら無く、淡い小麦色の肌が彼女の明るい笑顔を際立たせていた。
そういえば部屋に違和感があった。それは、入口近くに置かれた大きな段ボール。朝の時点では存在していなかったそれは、きっとなまえさんが持ってきたものだろう。一瞬嫌な予感がしたが、聞いてみる事にした。
「それで、この大荷物は何なんです?」
「あ、んだんだ。おばさんから渡してって頼まれたの」
なまえさんは思い出したように、段ボールを開け始めた。これを持って新幹線に乗ったんだろうか。それを考えると申し訳無い気分になる。箱の中には、野菜が入っていた。日差しをたっぷりと浴びた野菜は、鮮やかなビビットカラーをしていて落ち着いたトーンの僕の部屋に似つかわしく無いとさえ感じるほどだった。
「ほら、これ私取ったやつ。美味そうでしょ」
ぷっくりとしたトマトは、青々としたヘタの際までしっかりと真っ赤に染まり、艶もハリも申し分無かった。これは青島のおじちゃんから。と馴染みのご近所さんの名前で手渡された胡瓜はいぼが鋭く手に持つとじんわりと小さく刺激された。他にも茄子やオクラ、玉蜀黍、南瓜という所謂夏野菜の類が入っていた。
「よくまあこんなにたくさん」
「最初は小さい紙袋だったんだよ。駅に向かう途中で皆に会ったら、これ持ってけあれ持ってけって。小島さんなんて米持たせようとしてきたんだから。皆好きなんだよ、はじめの事」
昔からちっとも変わらないその世界の情景が浮かんでくるようだった。取り出した野菜を箱に戻し終わったなまえさんは、ちょっと疲れた顔をしてため息を吐いた。いくら新幹線や電車での移動と言えど、慣れない都会、ましてこんな大荷物も持ってなど、精神的にも肉体的にも疲れたに違いない。
「・・・・大変でしたね、ありがとうございます。お茶入れますね」
「ありがとう。今日はなまえお姉さんがこれで夜ごはん作ってあげるね」
「・・・・え?」
思わず取りだしたティーカップを落としそうになる。はっとして手に力を込めてしっかりと握ってからなまえさんを見ると、不服そうな顔をしていた。
「えって何だず?喜べよ、はじめのくせに」
彼女が何だか一気に子供みたいに感じる。それはきっと、昔の彼女と重ねているからなのだろう。姉となまえさんは大の仲良しで、僕も一緒によく遊んでいたが、二人で僕をからかうのが日課でそれが嫌で反抗すると、はじめのくせに、と姉と口癖のように言っていた。ああ、彼女も変わらないな。と思わずにはいられなかった。
「夜ごはんって、何時に帰るつもりしてるんですか?」
僕の問い掛けに、彼女は徐に鞄から財布を取り出して、切符を見る。
「えーと、明日の10時の新幹線で帰るよ」
「明日?へ、部屋は?ちゃんと予約してきたんですか?」
今から近くのホテルで空いている所を探さなきゃいけないだろうか、週末だし空いていないかもと僕が焦っているにも関わらずなまえさんはきょとんとしていた。
「タダ部屋あるのに予約する訳ないじゃん」
「タダ部屋って・・・こ、此処は駄目ですよ!」
「何、照れてるわけ?小さい頃は一緒に風呂入った仲じゃん、ね、は・じ・めちゃん」
にんまり笑うなまえさんの顔を見て、もう何を言った所で一歩たりともこの建物から出ないと悟る。はあ、と態とらしくため息を吐いてお茶の準備を再開すると、ガタガタと物音がするので慌てて音の方へ視線を送る。あろうことかなまえさんは僕のクローゼットを開けて中から無造作に服を取り出し始めた。
「ああ!何をしてるんです、何を!!」
「部屋着なんか貸してー。泊まる気無かったから着替えとか持って来て無いし」
「・・・・やっぱり貴女は帰るべきです。帰りなさい」
「いーやーだー。あ、これいいじゃん。・・・いくらはじめでも着替え見るなら金取るよ、100円」
「見ません。第一安すぎじゃないですかそれ」
いくつになってもなまえさんは僕をからかうのが好きらしい。それを居心地悪いと感じない僕も僕だ。
なまえさんが作ってくれたのは、持ってきてくれた野菜をふんだんに使ったカレーだった。トマトベースの酸味の効いたカレーの上に素揚げした茄子や南瓜等が乗ったそれは、とても美味しくて素直に感想を述べるとなまえさんは満足そうに微笑んだ。誰かと食事をするのは随分と久しぶりな事で、僕は柄にも無くそれが嬉しいと感じていた。
△
「はーじーめー」
甘ったるい声が耳を、だらしなく放り投げた脚と露出の多い服装が目を刺激する。風呂から上がってリビングに戻ると缶チューハイを片手にすっかり出来あがったなまえさんが居て、僕はまたため息を吐いた。
「貴女は・・・またこんなに酔い潰れて。少し反省したらどうです」
「潰れて無いですー」
「嘘を言うんじゃありません。もう寝なさい」
彼女の上にタオルケットを被せると、子供の様に駄々をこね始めた。そのうち寝てしまうだろうと無視して空になった缶をゴミ袋に移し、おつまみが転がるテーブルを掃除していると、なまえさんが抱きついてきた。振り返って彼女の顔を見たら払いのける気にはなれなかった。その状態のままテーブルを片づけ、電気を消す。無言でベッドに入った僕達は静かな時計の音を聞いた。背中から感じるなまえさんの体温はとても暖かい。ねえ、と消え入りそうな声が部屋に木霊した。
「何でお盆に帰って来ねな?ゴールデンウィークも来なかったくせに。おばさん寂しがってるよ」
「・・・・」
「・・・私が居るから?」
図星だった。彼女の発する言葉一つ一つが、まるで僕の体を刺すように刺激する。息が詰まりそうになるのをなんとか押さえて、ぎちぎちに固くなっている喉を動かす。
「そういう訳じゃないです」
「そう。・・・よかった」
「・・・・・」
「人生って、難しいね」
「・・・・・」
「どうしようもないんだけどね」
酷く落ち着いた声が振動を伝わって身体に直接入ってくるような気がした。彼女の涙が僕の背中に沁み込む。僕は彼女の涙が苦手だ。彼女が泣くのはいつだって、どんなに足掻いてもどうにも出来ない程行き詰まった時で、僕はどう手を差し伸べたらいいのか分からなくなる。実際今も、今の僕にはどうも出来ないのだ。
大学進学が決まった高校最後の冬。僕は久々に実家に帰り、なまえさんと再会を果たした。その時好きだと言われた。その時も彼女は酔っ払っていた。泣いていた。返事は聞きたくないし、いらない。と言われた。だから、という訳ではないが僕も言えなかった。学生のうちは良い。いつだって帰ろうと思えば実家に帰れるし、なまえさんに会える。しかし、それがいつまで続くだろうと考えると二人の未来が見えなかったのだ。未来を考えるほどに彼女が好きだ。
本当は今日段ボールを見た時、逃げ出してきたのかと思った。あの世界から、外へ、僕の居る世界へやってきたのかと。彼女の手を取り一緒に暮らそうと言って、どうやってお金を工面して部屋を借りる?バイト?そしたら学校は?自主退学?果たして僕がなまえさんを養う事が出来るのだろうか?それになまえさんの両親はどうする?彼女が居なくなったらきっと二人は酷く落ち込んでしまうだろう。
次々に立ちはだかる大きな壁は、今の僕にはどうやっても崩せない。崩せる日が来るのかという疑問はいつまでもずっと僕に付き纏うだろう。そしてその度に僕は、改めて自分の不甲斐無さを感じるのだ。
(150807)
フロストロマンス