「それで、し、宍戸先輩がっ」

 くだらない。
 そんな事を言ったら、きっと目の前に居る彼女は更にたくさんの涙を浮かべて感情をむき出しにするだろう。幼馴染として10年以上も付き合っているおかげか相手の行動を考えるまでもなくまるで自分の事の様に理解できる。うんうん、と相槌を打ちながら話を聞いてあげれば彼女は満足するんだ。なまえはただ彼氏との喧嘩中に襲いかかる寂しさを埋めてくれる、寄り添う存在が欲しいだけ。いつもその役目は俺だ。俺は女の子の考えに共感できない。なまえに何度もそう訴えたけれど、その度にちょたが紹介したんでしょ?と昔を掘り下げられると何も言い返せなかった。

 俺はずっと後悔してる。
 なまえはてっきり、俺と恋人とかそういう類になるんだとばかり思っていた。だからたまたま宍戸先輩と帰宅している時になまえと一緒になってお互いを紹介したら、二人共ドギマギしていつもと雰囲気が違う事に嫌な予感がしたし、いつの間にか宍戸先輩とメールしているなまえにすごく焦りを覚えた。数週間したら俺達の帰りに合わせてなまえも一緒に帰るようになっていて、仲良さそうに会話を弾ませる二人の背中を見ながら自分が惨めだとさえ感じた。宍戸先輩の事が好きだと俺に打ち明けてきたなまえが帰ったすぐ後に宍戸先輩から電話が着て同じように打ち明けられ二人が両思いだと知った時は嗚呼、やっぱりな。と思いながらも、認めたく無くて悔しくて仕方なかった。紹介なんてしなきゃよかったと心底思った。けれど、大事な先輩を裏切るなんて出来ないし、なまえが泣くような事になるのも見たくなかった。結局俺は自分の感情をひた隠しにして二人を応援する事にした。それがこんなに苦しいとは思わなかった。


「ねえ、ちょた泊まっていいでしょ?」

 水が飲みたいと言いだしたので用意をしてキッチンから戻ると、泣きつかれたなまえは微かに震える鼻声で俺に話しかけた。布団を肩まですっぽりと掛けて寝る準備は整っている。

「どうせ帰るつもり無いんだろ。いいよ、俺ソファで寝るから」
「やだ。ちょた何処にも行っちゃだめ」

 手を掴まれた訳でも、服の袖を引っ張られた訳でも無いけれどまた泣きだしてしまいそうななまえの声を聞いてしまった以上、俺はベッドの脇に留まるしか選択肢が無かった。腰を下ろし、子供を寝かしつける様になまえの背中を一定のリズムで叩く。昔から変わらない。なまえはこうしてやると次第にうつらうつらとしてきて、瞼を閉じてしまえばちょっとの事では起きないほどぐっすりと眠ってしまうんだ。

 俺ならなまえの事を何でも知っているのに。自分の方が宍戸先輩より上だと思えば思うほど、苦しくなった。自分がいつまでも未練たらしい事にも、宍戸先輩をそういった見下しの対象で見てしまっている事にも嫌気が指して仕方ない。

 
 ひんやりと冷たい空気がつんと鼻を刺激する。布団の中と冷えた部屋の温度差を感じ小さな震えが身体を駆け巡った。無造作に閉められたカーテンの隙間からはまだ薄暗い夜明け前の空が広がっている。ふと視界を隣に移せば、夢心地に頬を緩ませる寝顔。あのまま寝てしまったんだとなまえの顔に掛かる髪を払いながら徐々に働き始めた頭で考える。彼女の頬には目尻から伝ったであろう涙の跡がうっすらと残っていた。

 ポロン

 静かな空間を軽快な音が裂く。その音に反応した俺は胸を高鳴らせた。怖いもの見たさとはこういう事を言うのだろう。止せばいいのに好奇心に勝てなかった。先ほど音を発したケータイはまだぼんやりと光を放っていて、変わらず小さな寝息を立てている彼女の手中に収まったそれをそっと抜きだした。どくんどくんと脈打つ心臓の音が妙に大きく聞こえてくる。光を失わないうちにと画面を見やれば、俺が悪かった。と短く不器用な謝罪文が見慣れた名前と共に映し出されていた。それを見て俺は酷く落胆した。

 そろそろ俺に朝練の誘いのメールが入るだろう。彼女を起こさない様にそっとベッドから抜け出してバスルームへと急いだ。蛇口を捻ると天井に埋め込まれたシャワーヘッドからお湯が勢いよく出て一瞬で全身を覆った。薄暗いバスルームに湯気が立ちこめる。まるで責め立てる様に俺を叩き続けるお湯を受けながら、二人の未来が壊れてしまえばいいと、腹の奥底で罪悪感に負ける事無く大きくなる感情を押さえきれずに居た。

(16.01.20)

おしころすことさえできなくて

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