大演奏会を繰り広げる蝉。絵具で塗りつぶした様な青空。手に届きそうなほど近い雲。
 まだ夏だ。
 水滴をいっぱいつけたグラス。蚊取り線香の独特な匂い。生ぬるい風を送り続ける扇風機。
 まだ夏だ。
 絶え間なく照りつける日差し。地面の輪郭を崩す陽炎。光に反射して眩しく見える池。
 まだ夏だ。

 夏の活気を身体いっぱいで感じる事が出来る。なのに弦一郎ときたら、まるで蝉の抜け殻の様に生気の無い姿で縁側に座っている。つい数日前まで気迫溢れる試合をしていた彼が、今はこうしてぼんやりと時が流れるのにただ身を任せて過ごしている。全国大会から帰ってきた弦一郎は、その日からずっとこんな調子だ。私はその背中をただ見つめる事しか出来ない。

 朝早く起きて剣道の練習。学校へ行ってテニスの朝練。放課後は暗くなっても練習。休日など存在しないかのようなスケジュール。幸村が入院した時、率先して部を引っ張った。関東大会での負けを一番に悔やんだ。ただただ全国制覇の夢に向かって頑張っていた。只管真っ直ぐに生きていた。私は、マネージャーとして、幼馴染としてそれを誰よりも間近で見ていた。
 だからあの日、あの全国大会決勝の日、彼の執念で手に入れた勝利に、体が震えて全身に鳥肌が立った。生まれてから今までずっと経験した事の無い様な興奮だった。ぎゅっと組み合わせていた手が上手く離れなくて驚いた。アイシングを持って駆け付けると、氷嚢を受け取ろうとした弦一郎の手が震えていたのが分かった。私はしっかり目に焼き付けた。弦一郎の勇ましい姿を。皇帝の名に相応しい立派な姿を。

 幸村の試合が終わり、青学の優勝が決まった。表彰式から戻った皆を目にすると、上手く言葉が紡げなくて、それでも何かが込み上げて来て、それが涙を伴った嗚咽になりかけた時、とん。と私の頭に彼の手が、彼の力強い手が乗った。

「なまえ、すまない」

 たったその一言で私は、まるでスイッチが入ったかの様にたくさんの涙を出した。他に自分の感情を表現しようが無かった。3年間過ごしてきた部活動でのたくさんの思い出と、試合に負けた悔しさと、もっともっと頑張れば良かったという後悔と、私に声をかけた時に見えた弦一郎の涙やさっきの試合の姿とがぐるぐると頭の中で混ざり合って、止めどなく溢れる涙を作り出していた。どのくらいかは分からないけど、頭が痛くなるまで泣いた。弦一郎はその間ずっと私を抱き締めてくれた。

 次の日。朝、いつも通りの時間に目が覚めた。
 する事が無かった。
 今まで部活に行くために準備をしていたのに、そうだ。もうそんな必要は無いんだと分かると、心の中にぽっかりと大きな穴が出来た様なとてつもない喪失感が体中を駆け巡った。それは弦一郎も同じだったらしい。家に遊びに行くと、いつもはシャキッとしていた弦一郎が腑抜けた奴みたいに見えた。


 麦茶の色を含んだ氷がグラスの中で音を立てた。弦一郎は変わらず、縁側に腰を下ろし外を眺めている。私はその背中に向かって声をかける事すら出来ない。話したくない訳じゃない。けれど、何を話したらいいのか分からなかった。何を言っても弦一郎には届かない気もした。
 きっと弦一郎は、あの瞬間で止まったままなんだ。そして、きっと弦一郎に声を掛けられない私もそうなんだ。

 あの夏の中で私達の時間は止まってしまった。

(2015.07.17)

凍る夏

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