「ん?ねえ、不二。あれ同じクラスのみょうじじゃない?」

 練習終わりにテニス部数人で遊びに行ったモールでみょうじさんを見かけた。綺麗にディスプレイされた中からブラウスを一枚手に取り、自分に似合うか鏡の前で合わせて見ている。

「え、ああ。そうだね」
「あの人っすか?へー、あんな大人っぽい人青学に居たんすね」

 特にこれといって用事の無かった僕たちは、店内に設けられた休憩用のソファで寛ぎながら、透明な仕切を何枚か隔てた向こうに居る彼女を見ていた。彼女は私服のせいか学校で見るよりずっと大人びて見えた。買い物を終えた彼女は店員から袋を受け取る。視界の端に居た背の高い男性がそれを持つと彼女は恥ずかしそうに髪を耳に掛けて微笑んだ。

「つか彼氏っすかね。隣の」
「社会人っぽくね?なんだやっぱあの指輪彼氏とお揃いかー」
「年上好きじゃあ、英二先輩には絶対無理っすね」
「桃うるせー!てか、あんな笑ってんの初めて見たかも。ね、不二!」

 彼女の綺麗な笑顔を見た僕は、英二の問い掛けすら聞こえない程魅入ってしまっていた。


「みょうじさん、おはよう」
「おはよう、不二君」

 翌日、制服を着たみょうじさんはいつもと変わらずの雰囲気で、昨日の笑顔はまるで嘘の様に消え去っていた。朝のHRが始まるギリギリの時間に登校してきて僕の斜め前の席に座り、片耳にイヤホンを付けたまま授業を過ごす。

 ハイライト混じりの明るくて長い髪。
 指定外の丈の長いセーター。
 光に反射してきらりとする装飾された爪。
 お人形さんのようにふさふさな睫毛と大きな瞳。
 ほんのりと赤みをもつ肌理細やかな肌。
 右手の薬指で輝くシンプルなシルバーの指輪。

 先週まで、ちょっと校則違反が過ぎるクラスメイトとして彼女を認識していたのに、なんだか変な気分だ。彼女のつまらなそうな横顔を見ると、昨日の笑顔が浮かんできてまたあの笑顔を見たいと、そして、その笑顔を向けられる人物が自分であればと想う。もしかしなくても、僕は彼女に惹かれているんだと分かった。彼女は時々、机の下にケータイを忍ばせては画面を確認していた。きっと彼氏からのメールでも待ち焦がれているんだろう。連絡が無い事を確認すると、ケータイをポケットに戻して顔を上げる。授業中何度か確認していたが、連絡は着ていないようでその度に毎回寂しそうに薬指の指輪を触っていた。
 彼女にメールが来るとすぐに分かった。ケータイを確認した彼女の横顔が僅かながら緩み、先生を一度確認するとすぐに返事をするために指を動かしていた。彼女をこんなにいろんな気持ちにさせる事が出来る。その特権を一人占めしたいという欲がじわじわと自分の中で湧き出てきているのに僕は気付いた。けれど、付き合っている二人を引き裂くような事は出来ないし、したくない。認めたくないけど、この恋は叶わずにそのうち終わりを告げるんだろうと、ぼんやりと思っていた。

 荷物持ちとして姉さんの買い物に付き合わされていた僕は、姉さんの提案でカフェで一休みする事になった。ちょっと高いカウンター椅子に座って姉さんが戻ってくるのを待っていると、ふと視界に入った家族が居た。カラフルに並べられたランドセルを見て真っ先に決めていたであろうオレンジのそれを手に取る女の子。そしてそれを暖かい眼差しで見つめる親。どこにでも居るであろう普通の家族、普通の光景なのに、何故か目が離せなかった。一体何が僕をそうさせるのか気になって見ていると、ふと父親である男性の顔がいつかの思い出と重なる。けれどそれを思い出せず、視界を遮る様にやってきた姉さんから珈琲を受け取って暫くするとさっきの家族はもう居なくなっていた。
 次の日、教室でHRが始まるまでの間英二と話しをしているとみょうじさんがまた時間ぎりぎりにやってきた。

「おはよう、みょうじさん」
「おっはよー」
「おはよう」

 視線だけこちらに移した彼女はまたすぐに前を向いて机の横に鞄を下げた。その拍子にするりと落ちてきた長い髪を耳にかけた。その動作を見た時に思い出した。

「みょうじさんの恋人って随分年上だよね。娘さん、来年小学生かな?」

 休み時間に彼女の机の前にしゃがみ込んでそう声をかけると、彼女は一瞬きょとんとした顔をしてすぐに驚いたように目を見開いた。どうやら僕の思い違いでは無かった様だ。みょうじさんはちらりと辺りを見回して会話を聞いている人が居ないのを確認すると、ちょっといい?と立ちあがって付いてくる様に促した。特別教室が並ぶ棟にはほとんど人気が無く、一番奥の空き教室に入ると授業を知らせるチャイムが静かに響いた。彼女は不安なようで指輪を手で触りながら、ちょっと潤んだ瞳で僕を見る。

「.....不二君、何処で見たのかは分からないけど、その、他言する様な事はしないでほしい」
「大丈夫。学校とか相手の奥さんに話そうなんて思って無いよ」

 そう声をかけると、みょうじさんは安心したのか強張っていた肩の力がガクっと抜けて力無くその場にしゃがみ込んだ。動かずに俯く彼女はまるで僕に早くいなくなれと言いたげな雰囲気だった。けれど僕は、そんなのお構いなしに彼女の隣に腰を下ろした。

「けど僕、ああいう関係はいけないと思うよ」
「好き同士ならいいでしょ?ていうか、不二君には関係ない」
「好き同士って、そんな。彼は、きっ....と」

 きっと君と家族だったら家族を取るよ。
 そう言いかけた僕は言葉を発さずに息を飲んだ。みょうじさんの頬に涙が伝っていたから。彼女自身も気づいていたんだと分かった。

「私、っ彼が好きなのっ」
「.......」
「ただ、っ彼が好きなだけなの...」

 空き教室に、みょうじさんの嗚咽混じりの声が響く。
 そうやってどうしようもないくらい苦しんで泣けばいい。そして涙と心が枯れた時、僕が甲斐甲斐しく慰めてあげよう。嗚呼、なんて僕は性格の歪んでいる奴なんだろう。彼女が指輪を握る掌で、いっぱいに拭った涙は僕の心よりずっとずっと澄んでいた。

(2015.07.16)

朽ちた指輪と彼女の涙

back to top