『あ?今は一人に決まってんだろ』
『ぁっ、....けぇごっ早くぅ』

 ケータイの奥から聞こえてくる声は決して一人だけの声じゃなかった。あれはまるで蜂蜜みたいに甘ったるくとろみのある女の声。景吾は盛大な舌打ちをしたけど、私は気付かないふりをしてそのまま元の要件を伝える。その間も尚、あの甘い声が聞こえてきてべっとりと私の鼓膜に張り付いた。電話を切ってもずっと、それは張り付いたままだった。



「おう」
「.....おはよう」

 朝、家から出ると景吾が居た。凛とした表情で皺一つない制服を着こなし、寝癖なんて存在する事さえ許さない彼の恐ろしく整った容姿は、平凡すぎる私の近所の空間からものすごく浮いていた。彼の碧色の瞳が私を見据えている。しっかりと。心を見透かされ、次に何を行動するかさえ予測してしまいそうな彼の見抜く視線に耐えきれず、前髪に手櫛を通して視線を逸らす。門柱に凭れていた彼は私が近づくと自身の足でしっかりと立ち、私の鞄を何も言わずに持ってくれて、私の歩幅に合わせて学校へと向かい始めた。

「ねえ、朝練は?」

 いつも部活動に忙しい景吾と、一緒に登校するなんて随分と久しぶりな事だった。彼はこちらに視線こそ向けはしないけど、声には耳を傾けてくれていた。

「今日は休みにした」
「したって。もう、部長様が聞いて呆れるよ」
「俺様が休みって言ったら休みなんだよ」

 傲慢さを前面に出した物言いに相変わらずだなと、思わず苦笑いをしてしまった。私が笑うのを確認すると景吾は早く行くぞ。と声をかけて半歩ほど前を歩き、着かず離れずの距離を保って学校を目指した。校門を潜り次第に昇降口が鮮明に見えてくると、そこで待っていたであろう女の子達の黄色い声が聞こえてきた。心なしか景吾の歩調が早くなった気がした。

「じゃあな」
「うん」

 景吾は少し振り向いて横目で私に挨拶をすると、昇降口の黄色い声の中へと消えて行った。私にはファンサービスの一環だとまるで無理やりやらされているのだと言い張っている。けどその中心で心地よさそうにしている彼の顔を見れば、あんな言葉偽りに過ぎないのだと思い知らされる。


「なまえって不思議」

 休み時間、中庭でたくさんの女子に囲まれている景吾を見ながら由美が話しかけてきた。何が?と聞き返すと、彼女は盛大にため息を吐いて景吾が居る、窓の外を指差した。

「だって、あんなの嫌じゃないの?彼氏が他の女とベタベタしてるなんて。ほら、あの人ファンクラブの会長じゃない?今跡部君の腕に抱きついてるの」

 たくさん居すぎて限定的にみる事はしていなかったが、そう言われて見ると確かに楽しそうに景吾と談笑している姿が見えた。

「うーん.....確かに前は嫌だったかな」
「余裕があっていいなー。だよねー。お互い信頼し合ってるって感じがするもん」

 そう言って頷く由美に私は乾いた笑顔を見せるしか出来なかった。確かに景吾は私を信頼しているだろう。何があっても私は許してくれると。
 けど、私はどうだろう。
 景吾を信頼している?だから何をしても許している?
 いいや、そんなはず無かった。
 どんなに彼が私に構わなくても、どんなに彼が女の子と仲良くしていようと、私にはそれを許す許さないのどちらかを選択する権利など始めから無かった。ただ、受け入れるしかないのだ。だって、景吾に捨てられて一人になるなんて考えられないから。もし、そんな事になってしまったら私はきっと生きる事すら自ら放棄してしまうだろう。それ以外であれば、それさえ回避出来るのであれば、私はどんな状況でも良いのだ。


「なまえ、今日は一緒に帰るぞ。待ってろよ」

 放課後、机の整理をしていると景吾が教室の入口から顔を覗かせた。用件だけ言った彼は私の返事も聞かずに、女の子と腕を組んで廊下へと消えていった。


 私は幸せだ。たとえ私達の関係がドロドロの嘘で塗り固められて形成されたものだとしても。たとえそれが信じ難い程、歪な形をしていても。
 私は幸せだ。


title by亡霊

(2015.07.03)

楽園は嘘を欲しがる

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