「なまえー、精市君!全国大会から帰ってきたわよー!」

 階下から聞こえてきた母の声。昔はその声を皮切りに早足で階段を下りてお隣の精市の家に行き、おばさんへの挨拶もそこそこに二階の精市の部屋まで、階段を一段飛ばしして駆けて行った。ドキドキと胸を弾ませながら。

「ちょっと声掛けてきたら?2位だって大したものよー!!」

 そんな事をしなくなったのはいつからだろう。小学校へ通う様になって友達が増えた頃?男女の仲を気にする思春期を迎えた頃?
 嗚呼、違った。確か精市が泣かなくなった頃からだ。





 小さい頃の精市は女の子みたいに可愛くて、優しい気の弱い男の子で、よく近所の男の子にからかわれていた。加えて泣き虫だった精市はからかわれる度に公園の滑り台の下でベソをかいて家に帰って来なくて、その度に私は迎えに行って二人で手を繋いで家までの僅かな道をゆっくり歩いた。時には精市をからかう男の子と取っ組み合いの喧嘩をして母に怒られると、決まって精市が泣きながら、ありがとう、ごめんね。と謝ってきた。
 
 そんな、私がいつも助けていた泣き虫な精市が、ニカッとした満面の笑みである日私に伝えた事は、テニスをするという事だった。

 最初は、ニコニコと笑ってその日のテニスクラブでの出来事を話す精市を快く見ていた。けど次第に、テニスクラブの子と遊び、テニスクラブの合宿に行き、遊びに行っても常にテニスの話ししかしない精市に、苛立ちを覚えた。
 時にはテニスクラブの仲間を紹介されたりもした。ワイワイとみんなで遊んでいる中に私だけぽつんと佇んでいて、酷く疎外感を感じた。そして、仲間と一緒に笑い合う彼を見て、もう、昔の様に私が居ないと駄目な泣き虫の精市は完全に姿を消したんだと分かった。
 その日を境に、私は精市の家に遊びに行くのを止めた。最初こそ誘われはしたけど、断っていくと次第に誘われる回数は減り、3か月もすれば一切無くなった。

『精市君、立海に入ったんだって。テニス部も強いらしいよ』
『テニス部でレギュラーだってよ。すごいわね〜』
『ほら、なまえ。新聞に精市君乗ってるわよ』

 お隣さんだから、いらない情報が嫌でも入ってくる。その度に興味の無いように単調な相槌を返していた。


「なまえ!精市君、入院したんですって!」

 2年生が終わろうとしていたある冬の日。風がすごく寒かった日。玄関を開けた私の耳に飛び込んできたのは、衝撃的な言葉だった。慌てて家の鍵を閉めて歩き出す母の後ろを、制服のまま一目散に追い掛けた。急に動けなくなって倒れ込んだんだって。母が妙に神妙な面持ちをしているから病院に着くまでの間、すごく心配したのを今でも覚えている。何度も頭の中に幼い頃の精市が浮かんできて、ぐるぐると駆け廻って落ち着かず、電車の中で指折り目的地までの駅を数えた。何度も。

「なまえ、おばさん」

 病室のベッドに腰を下ろしていた精市を見て、拍子抜けした。てっきり私は寝たきりで話す事さえままならないと思っていたから、すーっと心臓が落ち着いていくのが分かった。母はおばさんと売店へ行ってしまい、私は精市とふたりきり病室に残された。

「久しぶりだね」
「.....うん」
「座ったら?」

 ゆっくりと歩いてベッドの脇にちょこんと置かれたドーナツ椅子に腰を下ろすと、精市はふふっと小さく笑った。

「なまえ、緊張してる?」
「...少しね」
「うん。.....俺も少ししてる」
「......うん」

 久々の再会だというのに、まったくと言っていいほど会話が弾まず、居心地が悪かった。相変わらず顔はちょっと中性くさいけど、ごつごつと角張った手や、同じくらいだったのにいつの間にか広くなった肩幅を見て、随分と成長したものだと思った。目が合うとなんだか気まずくてすぐに逸らして。私がちょっとでも動こうものならじっと視線が付いてくるのが苦しくて。母とおばさんが帰って来た時に安心した。すごく安心した。帰り際、お大事にね。と言った母に被せて、小さくお大事に。と声をかけると、精市は優しく微笑んで、ありがとうと言った。

「慌てていく事なかったじゃん」

 病院を出て、開口一番に厭味ったらしく母に声をかけた。

「元気そうだったし」
「手術、するらしいよ、精市君」
「.....そうなの?」
「まだ決めかねてるらしいの。テニスが出来なくなるかもって」
「何で?...手術したら治るんでしょ?」
「あくまで正常な状態に戻すだけ。それも成功率半分くらいなんだって。蘭子さん泣いてたわ。あの子がテニスを奪われるなんて酷い事、どうしてって。あんなに頑張っていたのにねえ」

 さっきの精市の微笑みが、突然戻ってきた。 
 分からなかった。
 そんな状況にいるのに、なんで嘘の笑顔で居るのか、私には分からなかった。





「え?そうなの?じゃあうちも探しましょうか?」

 お風呂から上がってタオルで髪を乾かしながら階段を上っていると母が何やら電話をしていた。なんだか焦っているようで、電話を切るとすぐ父を呼んだ。

「お隣の精市君、出かけたっきり戻って来ないんですって」
「もう12時なるじゃないか。ちょっと俺、その辺見てくるよ」

 その瞬間、自然と身体が動いていて、肩から落ちるタオルなんて気にもせず、私は外に駆けだした。予感がした。何故だか分からないけど、公園に居る予感がした。

 公園の滑り台の下に居る精市の少し丸まった背中を見て、ほっと安堵した。そして何だか、不謹慎ながらも、求めていた世界が広がっている事に子供みたいに胸を弾ませる自分が居た。

(2015.07.01)

ふたりぼっちの世界

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