05
深い木々の生い茂っている森に、彼と並んで立っていた。
木々の間に、ぽっかりと開いた空がある。そこに両手でワッカを作れば、なんとなく空のかけらを手に入れた気になって、おかしかった。
――いつか、空に行ってみたいんだ。
指のリングを目の淵にあてて、体全部から力を抜く。土に、風に溶けるように。今の囀りはポッポだろうか? その翼を広げ、どこに出かけ、どんなことを見てきたのだろう。
ああ、いいなあ。
思わず口から音が零れたとき、何かが空を隠してしまって、視界が一瞬暗くなった。「僕が連れていく」
空から降り注ぐ光が射して、その瞳はきらきらと瞬いた。
くしゃくしゃと頭を撫でてくれる手も、一生懸命に立ち向かう背中も、いつかは離れていってしまうだろう。
その時までに、僕は彼へ、何をのこせるのだろうか。「だから……」
ディグダの穴の出口であり、もう一つの入口は、ニビシティという町の近辺にあった。豊かな緑に踏み出すと、ようやく磁場の歪みから解放されて、ぼくも体がすっきりとした。
ヒビキとシルバーは、ニビに着くなり真っ直ぐとポケモンセンターに向かった。旅するトレーナーの癖と言ってもいい。
道中で戦い疲れた仲間たちや、まだふらつくぼくをジョーイさんに預けると、ヒビキはショップへ買い物に出掛けた。ついでに情報を集めてくる、と言い残して。
さて、ぼくはというと。
感覚を矯正する電磁治療や、頬の電気袋に溜まっていた電気を取ってもらって、雲が晴れたように気分爽快だった。ポケモンセンターって本当に至り尽くせりだと感動する。
ぼくは昔から体が弱くて、よく体調を崩すし、蓄電コントロールが上手くできない。逆に足りなさすぎることもある。
そんな面倒なポケモンを、レッドはずっと見放さないでくれた。時々、彼の相棒から電気の供給を受けることもあって、優しい電磁が心地好かった。
二人は、今も変わらず旅を続けているだろうか。色に溢れるこの世界で、どんなものを見ているだろう……?
みんなの回復が終わるまで、ロビーでトレーナーさんを待っていてね。唯一ボールに入っていないぼくは、そう言ったジョーイさんに頷いて、心地好い足取りのまま、ロビーに出た。
朝にディグダの穴へ入り、出口を抜けた時にはもう夕暮れが近かった。それから治療を終えた今、ロビーは夕日で朱く染まっている。
そんな、くすんだ赤みを漂わせる空間で、鮮やかな紅が一つ、ベンチに座って壁にもたれていた。
彼は連れ歩きをしていないようで、その傍らに、ポケモンの姿は見当たらない。
なんだ。てっきり、外出したと思っていたのに。
『……寝てるの?』
治療のおかげで気分が良かったから、彼の隣へふわりと飛び乗った。姿勢を低くして、腕組みしたまま俯く少年の顔を覗き込む。
赤みがかった睫毛が自然と持ち上がり、赤銅の瞳にはうっすらと、夕日の金色が射した。
伏せ見がちに、どこか憂いを帯びた瞳とかちあったとき、すとんと、胸に何かが落ち着いた。忙しなく右往左往していたものが、漸く居るべき場所に戻ってきたような、そんな感覚。
やっぱり、ぼくは、彼を見たことがある。
「僕らの名前」
『え……?』
「僕らの名前、だろ」
夕日の境目へ滲ませる様に、じわりと、それは呟かれた。
言葉は誰にも向けていないのに、赤銅の瞳だけが、真っ直ぐとぼくに下りてくる。
それは、確かに聞き覚えがある名前だった。あの恐ろしい施設で、唯一与えられたもの。そして、ぼくが唯一持っていたもの。
結局最後まで、レッドに伝えることは出来なかった。そしてたとえ、再びまみえることが叶ったとしても、ぼくは伝えられないのだ。
では後は、あの組織――ロケット団とぼくの関係を知っている人物だけ。
「安心しろ。オレはもう、やつらとは関係ない。……おまえは、信じられないだろうが」
ぼくの方に伸ばされた手が、少しだけ宙に留まり、そのままベンチに下ろされた。その姿に、あれ、と首が傾く。
なんだろう。既視感、と言うものを、シルバーからは何度も感じている。
恐怖なんかじゃない。柔らかくて、温かともとれる、ふわふわとした、何か。
ぼくから一歩踏み出してしまえば、空いた手の平に行き着いた。擦り寄っても避けられることはなくて、やがてそっと動いた手は、喉元をくすぐった。
慣れていないような、どこか不安げに固まった手。少しひんやりとしていて、空調の効いた室内では気持ちが良い。
「……一つ、忠告しておく」
ベンチに寝そべっていると、いよいよ眠気が膨れてくる。けど、寝るにはまだ随分と早い。せめて、ヒビキが帰るまで起きとかなきゃ。
そう体を起こしたとき、少年はぽつりと話しはじめた。顔を上げても、もう彼はぼくを見ていない。
その視線を追ってみたら、ガラスの向こうに、ヒビキが歩いてくるのが見えた。茜色の空を背負った少年が、どこか足早に戻ってくる。
「カントーには、まだ『やつら』の残党がうろついている。捕まりたくなければ、極力目立つな」
逃げ延びたいなら、ヒビキから離れるな。戦おうとするな。それでも彼は、旅を止めろとは言わなかった。
シルバーはぼくを置いて立ち上がり、鍵を一つ投げてきた。多分ヒビキのルームキーだ。
ヒビキの到着を待たず、彼はそのまま、エスカレーターへ向かってしまう。
ふと、その肩越しに何かの影が見えた気がして、思わずびくりとした。するとケタケタと笑い声がして、突然シルバーの後ろに現れたゲンガーが、愉快そうに笑っていた。
「ピカチュウ、ただいま。シルバーは?」
ヒビキはポケモンセンターに戻ってくると、第一に、ジョーイさんから仲間たちを引き取ってきた。彼にルームキーを渡すと、すぐに納得したらしい。
明日はニビジムへ挑戦してみようと思うんだ。そう話すヒビキはとても楽しそうで、聞いているぼくもソワソワしてしまう。彼のバトルスタイルは、観ている方も盛り上がるから。
きっと、シルバーとヒビキは、レッドやグリーンと似たような感じなんだろう。ライバルという信頼関係。その心地好い空間。――だからこそ、そこに触れる度、どんどん膨れていく昂揚と、どうしようもない焦燥感が、胸の底に積まれていく。
大丈夫。
もしもの時の覚悟は、昔と変わりなく据わっている。
「……ピカチュウ? 寝ちゃった?」
ヒビキの声が響いてくるけれど、今日はもう眠気に勝てそうにない。
優しく布団に包まれるのを、どこか遠くに感じながら、瞼の内に夜の帳を招きよせて、ひっそりと眠りに落ちた。
'120110
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