01


『――おはよう、ぼくの名前!』

 遠くで、珍しく名前を呼ばれたものだから、ああ起きなきゃと瞼を持ち上げた。名前で呼ばれたら答えなくちゃ。体に被さった布と、小さなベッドからのろのろ這い出る。人工の光が、また一段と白い。
 覚束ない足で立ち上がると、青くて丸いフォルムをしたポケモンが、呆れたように傍で跳ねた。

『もう、ぼくの名前は相変わらずお寝坊さんだなぁ。お昼はとっくに過ぎちゃったよ!』
『マリル……。コトネ、帰ってきたんだ』
『さっき帰ってきたんだ。ヒビキもだよ。今は二人とも家に帰ってるの』
『マリルはまた一人できたの?』
『ぼくの名前に会いに来たの!』

 怒られた。尻尾のしぼうがぽよぽよいってる。初対面もだいぶ怒られたが、この癖は相変わらずみたいだ。

 ……そっか。
 二人とも、帰ってきたんだ。



 マリルの話通り、二人は遅れて研究所にやってきた。使い古したシューズはぼろぼろで、腰に装備したモンスターボールの数はそれぞれ六個に増えていた。

「あ、ピカチュウ! 久しぶりー!」
「よかった、もう元気みたいだね」

 ウツギ博士から元気になったとは聞いてたけど。そう表情を綻ばせた二人が旅に出たあの日から、もう一年になる。
 ヒビキは背が伸びたのか、抱き上げられた時の視界が少し高い。手もまめのあとだらけだ。旅立ち前の柔らかさが懐かしくも、旅の過程が育んだ逞しさはとても誇らしい。喜びも挫折も悲しみも味わった、努力の手だ。

「ヒビキくんすごいのよ。ポケモンリーグのチャンピオンに勝ったの!」
「コトネだって、ジョウト地方のポケモン図鑑の完成近いんだよね」
『へぇ……。二人とも頑張ったね』

 言葉じゃ伝わらないから、頬を撫でてくる手にすりよった。子供ながら、夢を追いかける二人へのエールになればいい。停滞し続けるぼくからの、精一杯の餞。
 ヒビキの腕から降りると、途端にマリルがぼくの手を引いた。

『ねぇぼくの名前、一緒にカントーへ行こうよ!』
『え?』
『ヒビキたちは、今度カントーを旅するんだって』

 ――だから、ぼくの名前も行こう!
 興奮ぎみに跳ねるマリルに、トレーナーの二人は顔を見合わせた。言葉が通じないのだから仕方ない。

『旅ってすごいよ、きれいな景色がたくさんあるんだ。ボクはぼくの名前にも見てもらいたいな』
『でも、ほら。ぼくがいると悪目立ちするし……』
『ヒビキもコトネも、ぼくの名前と旅がしたいって思ってるよ。あとはぼくの名前の気持ちしだい』

 それは本当かい――なんて、聞けるわけなかった。マリルの瞳は海みたいに輝いていて、ぼくはそれを曇らせたいわけじゃない。
 マリルはヒビキのボールをひとつ取って、ぼくの目の前に置いた。トレーナーの二人が、不思議そうに僕らのやり取りを見守ってくる。

『……これ』
『大丈夫、ボクのボールだよ。手持ちじゃなくても旅はできるもの。それに、ボクはぼくの名前に笑ってほしいんだ』

 そう言って、マリルは照れていた。ぼくは小さなボールに目をやる。

 冷たい金属の表面は、よく見ると細かい傷でいっぱいだった。マリルはこの中に入って、あるいは共に歩くことで、コトネとジョウトを旅してきた。
 パートナー。実態のない絆を互いが信じて疑わない関係。なんて不思議な響きだろう。いつかのぼくにはいただろうか。世界のどこかにいるだろうか。
 あの子であればいいのに。いまでも、ぼくはそう切願せずにはいられない。

『ヒビキ、コトネ。
 ……ぼく、ついていって、いいのかな』
「ピカチュウ?」
「……もしかして、一緒に行きたいのかな?」
『会いたいんだ。あの子に』

 ただ黙って、二人を見つめる。それから小さなボールたち。それから……鏡に映る、白い毛並みのピカチュウを。

 ……願わくば、ぼくにとってのトレーナーは、唯一あの子でありますように。
 ぼくは会いたいんだ。もう一度、優しい目のあの子に。あの子たちに。それだけで構わないから。

 ヒビキとコトネは顔を突き合わせて、ただ一つ頷いた。まだ子供らしくもなんて落ち着いた表情を見せるんだろう。旅の経験を確実に吸収している。
 ヒビキが緩やかに両腕を開いた。躊躇って戸惑って、それからようやくその胸に飛び込んだ。

 ふたりは少し前屈みになって、よろしく、と笑った。









'100420 旅立ち

 

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