わたしには光さんという伴侶……つまり夫がおります。
少しだけ恥ずかしいのですが、わたしと光さんの馴れ初め……というか、出会いをお話させていただきます。



光さんとわたしの出会いは3年ほど前。
当時イタリアでジャパニーズスクールの講師として働いていたわたしは、たまたま、本当にたまたま立ち寄った本屋で夫が著者のノワール小説を見つけ、日本語で書かれたそれに物珍しさを感じ、パラパラと捲っておりました。
そのとき、横からまだ赤の他人であった光さんに話しかけられたのです。「アンタ、日本人?」と。
肯定すると、なぜわたしがそれを読んでいるのかと聞かれました。確かに、ノワール小説は犯罪の面が色濃く出ているため、女性のわたしがそれを手に取ったとき、興味がそそられたのでしょう。
本の感想を話していくうちに、わたしは彼がその本の作者だと気がつきました。
特に連絡先を教え合うわけでもなく、光さんとはそれっきりだと、わたしは思っていました。

しかし、そこからわたしと彼の奇妙な関係がはじまったのです。

本屋で、レストランで、はたまた道端で。

一週間に1回の確率でわたしは彼に遭遇し、話し込んで、またさようなら。いつも連絡先を聞こうと思っていたのに、彼と話すと忘れていました。

ある時、その日も偶然光さんを見かけました。それも、花屋さんでです。
彼がそんなところにいるなんて、びっくりしたのと同時に、少しだけ、胸が締め付けられる思いがしたのです。
かすみ草で覆われた、赤い薔薇の花束を店の方から頂いていました。

こちらの国でも日本でも変わらない愛を伝える方法、赤い薔薇の花束。
彼は、一体誰にそれを渡すのでしょうか。

一瞬でも自分にと思ったのが恥ずかしい。
だって、わたしは彼の恋人じゃない。
よく外で顔を合わせる、ただの知り合い、良くて友人。その程度ですもの。

そのとき、わたしは、初めて光さんのことが好きなのだと、自覚をしました。


暗い気持ちで踵を返し、とぼとぼと歩いていると、ジャパニーズスクールの生徒の男性と出会いました。
生徒さんはわたしの直ぐにでも泣きそうな顔にとても驚かれていました。

普段こんな顔を見せなかったからでしょうか、生徒さんはわたしの肩を抱き、食事に連れていってくださると言いました。
やはりイタリアの男性は女性を扱うのに長けていらっしゃいました。

しかし、肩を抱かれたとき、わたしは「嫌だ」と思ってしまいました。
触られられるのは、光さんがいいと。光さんじゃないと嫌だと。


そのとき、一瞬にして男性から引き離され、少し汗を含ませた覚えのある匂いに包まれました。
光さんに抱きしめられていたのです。

地面しか見ることのできない体勢のわたしは、そこに投げ捨てられた薔薇の花束を見ました。
大事な人に差し上げるのでは……?と思ったのですが、きつく抱きしめられたわたしは、言葉を紡ぐことも出来ませんでした。
そして、抱きしめられた光さんの胸から、バクバクと心音が聞こえ、息を切らせた光さんが生徒さんを睨んでいました。

『俺のオンナに触んな』

光さんは確かに、イタリア語でそう言ったのです。



それから程なくして、背後から私を抱きしめている光さんに、彼はわたしの生徒さんなんですよ、と言いましたが、

「生徒でも関係ないね。だって、なまえに触ったんだから。」

と不貞腐れ、全く謝る様子がなかったので、生徒さんにはわたしから深々と謝りましたが、恋人同士の邪魔をするつもりはこれっぽっちもないよ、とウィンクつきで言われてしまい、真っ赤になってしまいました。


そして、彼に投げ捨てられた薔薇の花束は、元はわたしへのプレゼントであったらしく、お付き合いを申し込もうとされていたようなのです。
その証拠に、花束に隠れていたメッセージカードにはイタリア語で『なまえへ 愛してるよ』と書かれていたのですから、疑いようもありません。


「でも、そんなチンタラしちゃいらんないって、分かったよ。なまえ、いつ他の野郎共に声かけられるか分かったもんじゃないし。」


だから、もっと分かりやすく、目印をあげるよ。

そう言って、光さんは胸ポケットに入っていたペンでメッセージカードの最後の余白に何かを書き込むと、私の左手の薬指の根本を甘噛みしてから、強めにちゅうっと吸い付き、キスマークを残しました。
突然のことで何が何だか分からないわたしは、ただただ混乱するばかりでしたが、光さんは、目の前で片膝をつき、花束を差し出してきました。

メッセージカードには最後の余白に『結婚しよう』と書き込まれていました。


わたしは嬉しくて、嬉しくて、泣きながら彼に抱きつき、彼にしか分からない日本語で、
「愛してます、光さん」
と耳元で囁きました。

すると光さんも、
「俺も、なまえだけだよ。なまえ、愛してる」
とまるでインクで記したような言葉を紡いでくれたのです。










(「ところで、光さん。」)
(「ん?」)
(「連絡先を教えてください。」)
(「ふはっ、そうだった!俺達、互いのアドレスさえ知らなかったね。」)





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