「開けてみろ」
 小さな蒼い箱をテーブルの上に置いて、私の目の前に座る軍人はそう言った。

 ここはシャーロの街中の、ちょっと洒落た喫茶店。私はミルフィーユと紅茶を、彼はチョコレートパフェとコーヒーを頼んで席に着いている。お茶を飲みながらいろいろな話に花を咲かせる、休日には家族連れやカップルが訪れて賑やかになるこの喫茶店には、この高級感溢れる蒼い箱は余りにも不釣り合いだった。私はその不釣り合いさに惑わされたのか、特に何とも思わずにその箱に手を伸ばし、蓋を開けてしまった。
 しかし、その箱の中に小さな、しかし確実な輝きを見付けた瞬間、私は慌てて蓋を閉じた。
「ラ、ライカ!」
 私は思わず立ち上がる。その剣幕に驚いたのか、周りの人が一斉にちらりとこちらを見たけれど、すぐに何もなかったかのように喫茶店の中はまた賑やかになった。
「おや、気に入らなかったか」
 私はふらふらと座り込み、優雅にコーヒーを啜るライカを睨み付ける。
「気に入ったとか気に入らなかったとかじゃなくて……」
 ライカはコーヒーカップを片手に小憎らしい笑みを浮かべている。昔と何ら変わらない、その顔。ただ、こうして顔を合わせる度に、彼の中の少年の面影は少しずつ薄れていって、だんだんと大人の男性の彼が表れてくるようになった。それは数年前に部隊長から格段に昇格したからか。きっとそれだけではないけれど。
 私は不思議な気持ちだった。寂しいような、切ないような。
「…………」
 発すべき言葉を見付けられずに、箱の表面を指でなぞっていると、ライカが口を開いた。
「マレンコフおじさんは、いいと言っていたが」
「…………!」
「お前がまだ嫌だと言うのなら、無理に受け取ってもらわなくても構わない」
「ライカ……」
 私はまた小さな蒼い箱に視線を落とす。……違う。嫌なんじゃなくて、不安なの。今ここにいるのはライカ本人であることに全く偽りはないのだが、今ここにいるライカは、完全には今まで私が知っていたライカではない。私が知っていて、尚且つ私が知らない彼。怖かった。昔から一緒にいた人が、少しずつ変わっていってしまうことが。私が昔から抱いていた気持ちを知らないまま、私のことを忘れてしまうかもしれないことが。
 ……でも、ライカは今ここにいる。私の目の前にいて、この蒼い箱を差し出して、開けてみろって、確かに言った。
 わたしでいいの、殆ど声にならなかった呟きを、彼の鋭い耳はしっかり拾ってくれた。
「……お前じゃなきゃ駄目なんだ」
 最後に小さく、俺が、と付け加えられて、私は耳を疑った。昔は絶対、こんなこと言わなかったのに。ここに来れば決まってチョコレートパフェとオレンジジュースを注文していた彼は、もういない。だが、その代わりにまた違う彼がやって来た。それは私の知らない新しい彼で、やっぱりちょっと寂しい気もするけれど、その新しい一面に、私はどんどん魅了されていってしまうんだろう。
 ライカは箱を開けて、その中にしっかりと鎮座していた指輪を取り出すと、私に左手を出すよう促した。さっき見た時にはすぐに箱を閉じてしまったけれど、今改めてその輝きを見つめると、なぜか目の裏に熱いものが込み上げてきた。
 ねえ、信じていいんだね。私はライカのことが好きだよ。ライカもそうだって、自惚れてもいいんだね。
 私は霞む視界で、ライカが優しく私の手を取って、薬指に指輪を填めてくれるのを見ていた。びっくりした。いつの間にか、こんなに優しいのに、こんなに大きな、頼もしい手になっていたんだね。
 するりと私の指に収まったそれは、私の手元で確かな輝きを湛えた。

 幸せだった。この極寒の地と例えられるシャーロの道も、全く寒く感じなかった。隣を歩く彼の頬は微かに赤く染まっていて、それは彼の白い顔にはよく映えていた。背伸びをして鼻の頭をそっと撫でて、子供みたいだねって笑ってやると、お前もな、と軽く頭を押されてしまった。彼のそのあしらいにむう、と膨れていると、ライカはその手で私の頭を撫でた。
「……そういうところは、変わらないんだな」
「えっ?」
 ライカの言葉の意味がよく分からなかった私は、彼の顔を見上げた。
「……いや、昔から一緒にいるはずのお前が、どうしてこんなに遠くに感じることがあるんだろうと思うことがあってな」
 私は目を見開いた。ライカも、私と同じことを思ってたんだ。そして、私は思わず、ふふふと笑ってしまった。
「何が可笑しい」
 今度はライカがむくれる番だった。私は未だに私の頭に載っていたライカの手を掴んで下ろさせて、それに指を絡ませた。
「私だっておんなじこと考えてた」
 小さい頃から誰よりも近くで見つめていると信じて疑わないのに、大きくなれば大きくなるほど、近くにいるはずなのに何故か遠くにいるように感じてしまう。いつの間にか私の知らないところへ行ってしまいそうで、それが何より怖かった。
 でも、お互い様なんだね。
 それはそうだ。何一つ、誰一人として移ろい行かないものなど無いのだ。こう言ったら変かも知れないけれど、私は嬉しかった。彼が同じ様に感じていてくれたことが。それなら、何ら心配はない。お互いをここに繋ぎ留めたいと思う心があるから。そして、変わって行く彼を、変わって行く私を、お互いに認め合えるなら。
 私はライカに頭をもたれ掛からせた。
「私は……変わらないよ」
 ライカを好きだって気持ちだけは。それを聞いたライカは驚いたように私を振り向いた。珍しく、見開かれている目。
「お前はいつも……」
 ライカは服の襟に顔を埋めて口の中でもごもごと呟くと、私の両肩に手を置いた。やがて近付いてきた彼の顔に見惚れる暇もなく、私たちは唇と唇を重ね合わせていた。



 私のPETに連絡が来たのは、その日からしばらく経ってからだった。
「…………うそ……、」
「ああ、今回のサイバーテロは全世界を巻き込むほど大規模で……シャーロ軍も全部隊に出動要請が出た。……すまない、いつ帰れるか、いや、帰って来られるかどうかすら分からないんだ」
 ライカのその言葉を聞いて、私は何と返したのか。気が付いた時には、私はカーテンに顔を埋めていた。
「ライカ……」
 その名前を呼んだ途端、堪えきれず溢れ出る涙。嗚呼。貴方を好きだという気持ちは変わらないと言ったばかりなのに。もしかしたら帰って来られないかも知れないだなんて、彼に限ってそんなことはないと信じているけれど、長い間、一人で彼を待ち続けなければならないと思うと、胸が張り裂けそうだった。
 ねえ、お願い。帰って来て。絶対に帰って来て、私にまたその小憎らしい笑顔を見せて。帰って来てやったぞって、私の頭を軽く小突いてよ。
 溢れる涙を止める術が分からない。そんな私の左手の薬指で、銀の輪に据えられた宝石が無機質に輝いた。


真実の対価





企画「なまえをちょうだい」さまに提出
素敵なお題をありがとうございました!


2011.10.26
2019.3.11 修正


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