Picc.士郎
Flアツヤ





「はい、ストップ!」
 久遠の一言で軽快なマーチのリズムがかき消えた。やばい、僕かも、と思った士郎は楽器を下ろすことができず、硬直してしまった。
「こんなところで間違えてる場合じゃないだろう、ピッコロ」
「すいません……」
 士郎は俯き小さく呟く。
「次やったら人代えるからな」
「……はい……」
 士郎は嫌でも代わりたくなかったが、有無を言わせぬ久遠の口調に、返事をせざるを得なかった。
「いいか、ピッコロだけじゃなくて他も同じだからな、よく練習しておけ」
「はい!」
 久遠が席を立つと、ありがとうございました! と部員は起立し挨拶をした。
「よし、この後は個人練かパート練だ!」
 円堂の指示に、部員はそれぞれ楽譜と譜面台を持ち音楽室を出て行った。
「……。」
 それにもかかわらず、士郎は立ったまま未だに動けないでいた。
「……士郎、行こうぜ」
 それを見て耐えかねたアツヤは、士郎の分の楽譜も抱えて言った。
「あ、うん」
 アツヤに言われて、やっと士郎は首を縦に振った。

 学校の廊下に楽器の音が響き渡る中、士郎とアツヤは静かな教室に籠もった。
「どうしたんだよ士郎」
 教室のドアを閉めるとアツヤは士郎に聞いた。
「どうしたんだろう僕」
 アツヤの質問に士郎は疑問形で答えた。士郎もアツヤも、普段ならあんな簡単なところで久遠にバレるような大きなミスなどしないことはよく分かっている。だからこそ、気になるのだ。
「とりあえず吹いてみろよ、さっきのとこ」
 アツヤに言われて、士郎は緊張気味に
「う、ん」
 と答えてピッコロの吹き口を口に当てた。そうして士郎が吹いた旋律は先ほどのような間違いはなかったが、アツヤは士郎の音を聴いて驚愕した。
「……どう?」
 吹き終わった士郎はアツヤに聞いた。アツヤはやっとやっと答えた。
「おい、マジでどうしちゃったんだよ士郎……」
 そんなの士郎の音じゃねえよ、とアツヤは小さく付け足した。
「……え?」
 士郎は自分の耳を疑った。僕はいつも通りに吹いてるはずなのに、これは僕の音じゃないって?
「どういうこと、アツヤ」
 音色には人一倍自信がある士郎は急かすようにアツヤに聞いた。
「あ、えーっと、ほら、士郎は俺に比べたら音が綺麗だろ?」
「……うん」
「でも、なんだか……なんていうか……ギスギスしてるっていうか、足が地に着かないっていうか、なんかこう、落ち着いて聴いてられない音がするんだ」
 アツヤがしどろもどろに言葉を紡ぐと、士郎がはっとしたように続けた。
「それは……僕が、焦ってるってこと……?」
「それは士郎にしか分かんねえだろ」
 アツヤに言われて冷静に思い返してみた。思い当たる節はなきにしもあらずだ。最近はみんな必死に練習している。周りが目に見えて上達していくのに対し、近頃の士郎はいくら練習してもこれといった進歩がなかった。
 それに加えて自分の担当するピッコロは、フルートのように同じパートを複数人で吹くことはなく、士郎は音があれば常にソロの状態だった。間違えてはいけない、かといって消極的な音になってもいけない。自分の他にこのパートを吹く人はいない。僕が、僕がちゃんと吹かなくちゃ――。
 士郎の責任感とプライドが、自分自身を追い込んでしまっていたのだ。
「士郎」
 アツヤが士郎に声をかけた。士郎が顔を上げると、アツヤはすっと手を差し出した。
「ピッコロ、貸して」
 士郎が頷いてピッコロをアツヤに手渡すと、アツヤはピッコロを口に持っていった。そしてアツヤはとあるフレーズを吹いた。

 ミシシファミミシミミファーミ、ミシシファミミシミミファーミ……

「アツヤ、それ」
 士郎の瞳に微かに光が差したのをアツヤは見逃さなかった。
「士郎の好きな」
「『私のお気に入り』……!」
 アツヤが士郎からピッコロを借りて吹いたフレーズは、士郎が一度吹いてから非常に気に入っていた『私のお気に入り』の冒頭だった。
「やっぱさ、」
 アツヤは士郎の目を見て言った。
「上手くなりたいとか、頑張らなきゃとかあるけど、好きで吹奏楽やってんだろ、俺たち」
「うん」
「だったらさ、やっぱり楽しまなきゃいけねえと思うんだ」
「うん」
 士郎もアツヤの目を見た。
「他人のペースに流されてるようじゃ、僕もまだまだだなあ」
 アツヤはピッコロを士郎に返した。そして今度は自分のフルートでマーチの冒頭を吹き始めた。士郎は、よし、と気合いを入れてピッコロを構える。二三度深呼吸をし、意識を集中させる。大丈夫。いける。
 士郎がピッコロに息を入れると、透明なよく通る音が部屋に響いた。その音にアツヤが反応し、満足そうに頷いた。先程の合奏で士郎が間違えたところも難なく通り過ぎ、二人は曲が終わるまでアンサンブルを楽しんだ。
「はーっ」
 士郎は満足げに楽器を下ろす。するとアツヤが目をきらきらさせて言った。
「士郎! 戻った! いつもの士郎の音だ!」
 士郎はアツヤに言われてはっとした。
「……そうか僕、楽しめてなかったのか」
「やっぱそうか! 最近元気なさそうだから心配してたんだぜ、俺」
 アツヤは安心したようで、満面の笑みを浮かべている。
「……ありがとう……」
 士郎は呟いた。それを聞いてアツヤは言った。
「同じパートなんだから、当たり前だろ」


焦らなくてもいいんだよ


 少なからず個人差があるわけだし……ね。


2011.3.26 修正
2019.3.11 修正


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