Hr雪村





「まただ……」
 どうしてもリップスラーのアルペジオが上手くいかなくて、俺は構えていた楽器を下ろす。

 一面雪に覆われたグラウンドを前にして、俺はソロ曲の練習をしていた。
 ソロコンが近いこともあって、全体練習が終わった午後も帰らずに練習している仲間はたくさんいる。
 他の音に紛れて自分の演奏が誤魔化されてしまうのが嫌でここに来たのだが、雪を滑り空に音が抜けていくのは本当に気持ちが良かった。
 ただ、ちゃんと吹けるかどうかは別として。

「何がいけないんだろ……」
 この寒さの中だとすぐに楽器が冷えて吹きづらくなってしまう。唾を抜いてから、楽器を温めるために息を入れていると、突然、
「リップスラーは肩と唇に力入れちゃ駄目だよ」
 との声がして、俺はびっくりして変な音を出してしまった。
「ふ、吹雪先輩……!?」
 声のした方を向くと、何故かちょっと慌てたような先輩がいた。
「あ、いや、楽器の音を聞くと、ついアドバイスしたくなっちゃうんだよね……」
「そうなんですか」
 先輩の前で変な音出すなんて恥ずかしい、と思って苦し紛れに楽器にもう一度息を入れながら指を回すと、とあることが頭をよぎった。

 あの写真の人って、もしかしたら――

 気になって仕方なくて、しかも半分確信があればもう止められない。俺は知らず知らずのうちに口を開いていた。
「先輩ってホルン……てゆーか、楽器、吹いたことあるんですか」
「ん、まあ……もう、ずっと昔の話だけどね」
 雪村、僕も君と同じホルンだったんだよ、とそっと付け加えられて、殆どが予想通りの答えだったとは言え、俺は胸の高鳴りが抑えられなかった。
「……な、何か一曲、ふ、吹いてくれませんか?」
 勢いに任せて言ってしまった。正直、傲慢なお願いだったと思う。
 ……でも、だって、もしかしたら本当に、吹雪先輩は――
「えっ!? いきなりだなあ……上手く吹けるかどうか、分かんないよ?」
「それでもいいんです!」
 憧れの、吹雪先輩のホルンだ。先輩が上手く吹けなくたっていい。一度でいいから、先輩の、生の音を聴いてみたかった。
 マウスピース洗ってきますね、そう言って俺は水道に向かって走る。この高揚感とドキドキは、久しぶりだった。

「そ、そんなに期待されてもなあ……」
 吹雪先輩がホルンを持っている姿は、なかなかサマになっていた。む、やっぱりもう少し背が高い方がいいのか。
「うーん、何吹こうか……ちょっと音出しさせてね」
「はい」
 少しスケールやアタックの練習をしてから先輩が吹いたのは、十年前に白恋中の金八が全国大会で金賞を取った時の曲だった。

 やっぱり。正解だ。

 吹部の練習室に飾ってある一枚の写真が頭に浮かんだ。きらびやかなホールで、堂々とした構えで。
 あの華やかな演奏は、CDで何度も何度も聴いて、耳に残っている。
「(すごい、やっぱり吹雪先輩って、あの人だったんだ……)」
 まさか本当に、生で聴けちゃうなんて。先輩ののびのびとした豊かな音色に聴き惚れていると、
「…………あっ」
 先輩は俺と同じくリップスラーで失敗した。

「あーあ、やっぱり久々じゃ駄目だね」
 既に楽器は俺に手渡されていて、俺たちはベンチに座って休憩していた。
 先輩が苦笑する一方で、俺は感動で震えが止まらない。だって、あの憧れの人の音が聴けたんだから!
「…………せんぱい、」
「どうしたんだい、雪村」
 ……言え。言え、俺。
 怖じ気つくことなんかない。こんなチャンス、今しかないんだから。
「あ、あの、俺にもっとホルンのこと、教えてくれません、か……?」
 ちらっと様子を窺うと、先輩は目を見開いていた。う……、やっぱり駄目だったか……?
「……うん、いいよ」
「ほ、ホントですか!?」
 嬉しさ半分、驚き半分で思わずガタッという音をたてて立ち上がる。驚きの二つ返事だった。
「よ、よよよよよよろしくお願いします!」
 噛みまくりの俺に、先輩が笑って、そんなに畏まらなくたっていいんだよって言うけど、こんな滅多にないチャンスだし、やっぱり、憧れの人の前ってつい、緊張しちゃうよ、な?


the person I admire


「じゃあまずホルンの構え方からねー」
「えっ」


2012.3.23
2019.3.11 修正


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