それは、すがすがしい晴天の日のこと。緑の匂いのする爽やかな朝の空気を吸って、綿菓子をちぎったようなふわふわの真っ白な雲を見て、熱斗はふと、心の奥底に小さく思い出すことがあった。
 すぐさま脇の端末を取り出してロックマンに向かう。
「なあ、ロックマン」
「なに、熱斗くん」
「ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」
 うん、聞くよ、話して。そう言って姿勢を正すロックマンを見て、熱斗は切り出した。

 あれは、もうずっとずっと昔のこと。
 俺はまだとっても幼く、体も小さくて。だから、あの頃のことで思い出せることってほとんどないんだけど、実は、唯一覚えてることがあるんだ。
 それは、なぜか俺にとってもよく似た小さな子が、いつも隣にいたってこと。
 俺はその子と毎日話をした。気持ちのいい空だねとか、綺麗な花が咲いてるねとか、いろんなとりとめのない話を。
 あの頃の俺は、俺と、その子との世界が全てで、俺はいつもあの子の後を追いかけてた。あの子と一緒にいられる、そんな些細なことだけで満たされていたのに、あの子がいないと途端に駄目だったんだ。
 でも俺、その子と一緒にいていろんな話をしたことばっかり覚えてて、肝心のその子の声とか名前とかは、全然覚えてないんだ。

「……熱斗くんにとってその人は、かけがえのない人だったんだね」
 今まで黙って熱斗の話を聞いていたロックマンが口を開き、感慨深そうに言う。
「今突然思い出したことだから、はっきりそう言っちゃっていいのか分からないけど、ロックマンに今の話をしてるときすごくわくわくしたから、きっとそうだったんだと思う」
 でも、そんなに大切な人だったのに、今までまるで思い出さなかった上に、名前まで忘れちゃってるなんて、そんなことあるのかな、と熱斗は首を捻った。
「……思い出せないことって、あるんだよ」
 急に表情に翳りを作ってロックマンが言う。
「全てを覚えていられる人なんていないんだ」
 だから、熱斗くんがその人のことを忘れてしまっていても、仕方のないことだと思うよ、とロックマンは先ほどの翳りが嘘のような明るい声で続けた。
「そうかな……」
「ね、その人との思い出って、こんなこともあったんじゃない?」
 今度はロックマンが、熱斗によく聴かせるように話し始めた。

 その日は梅雨で、雨が降っていたんだ。熱斗くんもその人もそれぞれ傘を持って、長靴で水たまりをぱしゃぱしゃして遊んでいた。
 雨や水たまりの飛沫が顔にかかるのが面白くて笑ったり、雨が傘に当たる音や蛙の声に耳をすましたりたり、綺麗な紫陽花がそこらじゅうに咲いているのを見て回ったりして――

 ロックマンの話を聞いているうちに、熱斗の目からは大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちていた。
「わわっ」
 それに気付いた熱斗はびっくりして、慌ててごしごしと涙を拭う。それでも、どんなに涙を拭っても、突然心に渦巻き始めた苦い気持ちは止まらない。
 ロックマンが話してくれた情景はとても鮮やかで、熱斗はそれを手に取るように想像できた。
 だからこそ、あんなに楽しかった思い出、その中のあの子を今までまるで忘れていたこと、そして、あの子が今熱斗の隣にいないことを、とても苦しく感じた。
 そうだ。俺は、声や名前だけじゃなくて、あの子はどうなったのか、どこに行ってしまったのか、それさえも覚えてないんだ。
 自分とあの子との世界だけでよかったのに、いつも一緒に笑っていたのに、隣にいなければ不安で仕方なかったはずなのに、何故?
「熱斗くん……」
 止まらない涙を拭い続ける熱斗を見て、ロックマンは熱斗に届かないような小さな声で、熱斗の先のどこか遠くを見つめて言った。
「……悲しいことって、思い出せないんだ、悲しいことは思い出せないってことも、忘れてしまうんだ」
 熱斗くんが知り得なかった、忘れてしまったその先のこと、いつか、いつか、僕が教えてあげよう。だから、今はまだ――
「熱斗くん、聞いて」
 ロックマンは強い決心で口を開く。熱斗はその強い口調に体を硬くしながらも、ロックマンに振り返った。
「熱斗くんがその人をとても大切に思って、その人がいなければ駄目だったのと同じように、僕も熱斗くんをとても大切に思っているし、熱斗くんがいなければ駄目だし、それこそ何もできないんだ」
 熱斗は黙って頷く。
「だから、僕は君に約束するから、君も僕に約束してほしい」
 瞳に強い光を灯してロックマンが言う。
「これからは、ずっと離さないで、一緒にいて」
「うん」
 熱斗は大きく首を縦に振る。
「それから、熱斗くん、もう泣かないで、笑っていてよ」
 これ以上はないというくらいの笑顔で、ロックマンは言った。
 ロックマンの突拍子ない明るさに熱斗が驚いてぱちぱちと瞬きをすると、涙の最後の一粒が頬を滑り落ちていった。
 それは、いつか見た大好きな笑顔――のように熱斗の目に映った。

 ロックマンの言葉を聞いて、涙の止まった熱斗もすぐに笑顔になった。
 そうだ。僕も熱斗くんの笑顔が大好きなんだ。熱斗くんと一緒で、僕も、自分と熱斗くんとの世界で満たされるし、いつも一緒に笑っていたいし、隣にいなければ不安で仕方ない。それは、あの頃から、ずっと変わることはない気持ちだ。
 ロックマンは熱斗の手元の端末から外を見上げて言う。
「ねえ、熱斗くん、気持ちよく晴れた空だね」


この青い惑星から飛んで飛んで君の隣へ


image song:グレゴリオ feat.ちびた/古川本舗


2016.3.21


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