生存設定





 夏の兆しが見えてきたといっても、夜になればまだまだ冷える。
 俺も兄さんも、半袖と短パンで出てきちゃったの、まずかったかな。
 熱斗は土手の上で立ち尽くしたまま、川辺で縮こまっている兄の小さな背中を心配そうに見つめていた。

 彩斗の突拍子もない言い出しは、いつも熱斗を驚かせる。今日だって、夕飯を食べ終えて、風呂が沸くまでソファーでテレビを見ていたところに、いきなり「蛍を見に行きたい」だ。ゆったりとくつろいでいたところに後ろからいきなりとんでもないことを言われて熱斗はびっくりした。
「兄さん、ホントに行きたいの?」
「うん」
 いやいやいや、これから風呂だし、外だってまだ肌寒いだろうし、たぶん帰り遅くなっちゃうし……ありとあらゆる説得の言葉を矢継ぎ早に思い浮かべて、でもそのどれもが兄に通用しないことを熱斗は思い出す。こういうときの兄さんって、折れたためしがないんだよなあ。
 熱斗は説得を諦めてため息混じりに言う。
「……分かったよ。俺が止めても一人で行くって言うんでしょ。じゃあ一緒に行くよ」
「熱斗、ありがとう」
 そう言うが早いか、彩斗は熱斗の手を引いて外に連れ出すのだった。

 夜の空気は肌寒いと言っても、昼間の気温が高かったこともあって、肌を撫でていく風はむしろ心地よいくらいだ。
 彩斗を後ろに乗せて、熱斗は自転車を漕ぎに漕ぐ。
 蛍はきれいな川に住んでいると聞くけれど、実際どんなところにいるのかよく分からない。彩斗が街の光から離れたほうがよく見えそうだよと言うので、家からあまり遠くならない程度に川の上流を目指すことにした。
「あ! あそこ!」
 しばらく上っていくと、彩斗が川面を指差して言った。熱斗は自転車を止める。
「光った!」
「ええ? どこぉ……?」
 二人分の体重の乗った自転車で上り坂をずっと漕いできた熱斗は息も絶え絶えで、ハンドルにもたれかかりながら彩斗の指差す方をなんとか目で追うのが精一杯だった。
「あ、ごめん、熱斗。疲れちゃったね」
 じゃあ僕一人で見てくるから、熱斗はここで待っててよ。彩斗はそう言って、土手をゆっくり下りて川へ向かっていく。
「彩斗兄さーん、気をつけてよー」
 熱斗の言葉に、彩斗は背を向けたまま片手を軽く挙げて、明るく「はーい」と返事をした。

 先ほどは心地よい肌寒さといったが、そのひんやりとした空気に触れ続ければ当然体は冷える。自転車を必死に漕いで汗をかいてしまったからなおさらだ。
 兄さん、寒くないのかな。
 未だ飽きもせず川辺にしゃがんで蛍を探し続けているけれど、川の水だって決してぬるくはないと思うし、恐らく足元くらいは濡らしているんじゃないだろうか。
 熱斗は自転車を止めて、一度体を大きく伸ばした。川が流れる音と草木が風に揺れる音が耳を撫でる。川下に目を向けると、おだやかな街の光が見えた。辺りを照らすのは頭上の月と、道なりにぽつぽつと立っている電灯くらいで、街からそう遠く離れてはいないものの、ここはずいぶん暗く感じる。
 彩斗はようやく見つかった蛍をとても熱心に眺めているので、蛍を脅かさないように、熱斗はそっと彩斗に近付いた。そして改めて周りを見渡す。
 今まで熱斗が想像していたような光の乱舞はここにはなかった。たった数匹の蛍が迷い、戸惑ったかのように光の尾を弱々しく散らしているだけだった。その中で、彩斗が特に執心して見ている蛍は、草に止まったまま光を点滅させていた。川面に揺れる月の影によく似ている。
 たったこれだけの蛍でも、それが見れたことが嬉しかったのか、暗闇にわずかに窺える彩斗の横顔はとても満足げだった。だから、熱斗はしゃがんで蛍を見つめ続ける彩斗に声を掛けるのを、少し躊躇った。
「……彩斗兄さん、どう?」
「なんか、あの蛍が捕まえられそうなんだけど、ちょっと手が届かなくてさ」
 確かにその蛍は少し手を伸ばしただけでは届かなそうな草の先に止まっていた。
「まさか。ホントに捕まえる気?」
「ちょっと待っててよ」
 そう言って彩斗が川に足を踏み込んで両手で蛍を包んだのと、熱斗が慌てて思わず彩斗の腰を両腕で掴んで引いたのが同時だった。二人して川の浅いところに尻餅をついた。軽く水しぶきが上がって、水に浸かった下半身だけでなく、頭の先まで濡らしてしまった。そしてその冷たさにぶるぶると震え上がる。そんなことまで二人で時を同じくするものだから、思わず顔を見合わせて、声を上げて笑ってしまった。

 そのままだと風邪をひいてしまいそうなので、二人はとりあえず自転車のところまで引き上げることにした。その間も彩斗は両手の中の蛍を大事そうに大事そうに運んでいて、もしかしたら持って帰って家で飼うつもりなのかと熱斗は思った。
「彩斗兄さん、その蛍……」
「うん、飼うつもりはないよ、ちょっと触ってみたかっただけ」
 そう言って彩斗は掌を開く。彩斗の手に包まれていた蛍は、突然開いた視界に驚いたのか、戸惑ったように少し間を置いてから、淡い光を放ち、空へ飛んでいった。去り際に、熱斗と彩斗の顔をふわりと照らしながら。
 熱斗と彩斗は、他の蛍に紛れてどこに行ってしまったのか分からなくなるまで、ずっとその蛍の光を目で追いかけた。

 帰りに自転車を漕ぐのも熱斗の仕事だった。下り坂だから行きよりも楽だけれど、ほぼ全身を濡らしてしまったために、どうにも体に当たる風が冷たい。
 ゆっくり帰ろう、そう言って彩斗は自転車の後ろに乗り、熱斗の腰に両腕を回す。分かった、そう言って熱斗は両手を伸ばしてハンドルを持ち、そっと足を踏み込んで自転車を漕ぐ。
 また見に来ようね、そう耳元で囁く彩斗の声は弾んでいた。俺も、次に来たときは、蛍を捕まえてみようかな。
 だんだん近くなる街の明かりは、あの蛍の光のようにあたたかかった。


光溢れる両手


2015.6.10
2016.6.10 修正


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