生存設定





「いい加減にしてよ!」
 自分でも驚くくらい、びりっと鋭い声が出た。

 目の前にはあちこちに散乱したリビングの置物たち。そして真っ赤な顔のアツヤ。きっかけこそもう曖昧だけど、部屋の惨状を見れば、どれだけ激しい口論をしていたのかは、誰にでもはっきり分かることだった。
 アツヤは何かを言いかけたけれど口を噤んだ。そのまま僕たちは何も言い合うことはなく、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながらお互いを睨み合った。僕の一言で途切れた口論は、やはりそれ以上続くことはなかった。何となく気まずい空気が僕たちを取り巻く。遂に睨み合っていた視線はぷいと逸らされ、もう出会うことはない。
 その中で不意に虚しさが体の奥から湧いてきて、僕はアツヤに背を向ける。何故だかどうしようもなく悲しくなって、僕は走って家を飛び出した。

 虚しさを取り払うように、何も考えなくて良いように、とにかく何処か遠くに、遠くに行けるように、僕は走った。
 走りに走って、とうとうエネルギーが切れて走るのを止めた時、僕は商店街の中にいた。意図せずとも、そこらじゅうから人の声が僕を取り巻いてはすり抜けていく。
 ここに来るのはそんなに頻繁じゃないから、どこに何があるのか良く分からない。それに、突然出てきてしまったから、当然、お金もない。
 とりあえず当てもなく歩いていると、よく待ち合わせに使われるという大きな木が見えた。これなら僕も知っている。
 僕はその木の周りを囲んでいる煉瓦に腰掛けた。そしてその木の間から日の光を透かしてみる。春の日は出ているのに、少し肌寒い日だった。一刻も早く家を出て行きたかったとはいえ、上着でも着てくれば良かったな。

 一つ、深呼吸。

 大きく息を吸って吐く度、今更のようにさっきの口論の様子がありありと思い出された。自分が強く言い返したことも、はっきりと。
 ――でも。
 僕は首を横に振る。アツヤなんか、知らない。
 もう一度、深呼吸。
 とにかく息を長く吐き続けた。こんな気持ち、この息と一緒に飛んでいってしまえ。

 息を吐ききると、気持ちがだいぶすっきりした。よし、と僕は立ち上がる。すると、すぐ近くにいた人にぶつかってしまった。
「すいません」
 その人を見て、僕ははっとした。幸せそうな顔の人と、連れ添ってどこかへ歩いて行く。周りを見渡す。あろうことか、行く人来る人みんな、二人連れだった。どこの誰もが、楽しそうな笑顔で過ぎ去っていく。僕は、自分一人だけが取り残されたような感覚に襲われた。

 ……寂しい、よ。

 寂しい。素直にそう思った。アツヤに会いたい。
 でも。さっきの口論を思い出して、僕はまた視線を落として首を振る。

 アツヤなんて! アツヤなんて…………、いや、それよりも、アツヤにあんなことを言った僕を、アツヤは、受け入れてくれるのか? もし、受け入れてもらえなかったら?

 途端に視界がぐにゃりと歪んだ。
 駄目だ、駄目だ、抑えろ。だって、もし受け入れてもらえなかったとしても、それは、僕の所為じゃないか。
 喧嘩の理由は本当に些細なことだった。ただ、今回はだんだん感情の抑えが効かなくなっていって、だんだん口論がエスカレートしていって、お互いに強く当たってしまったのだ。
 ここまで来たら、喧嘩の内容なんてもうどうでもいい。喧嘩した後、お互いの心の隙間をどう埋め直していくかが大事なんだ。
 アツヤは、アツヤは許してくれるかな。僕は、これが理由でアツヤに愛想尽かされちゃうなんて、絶対に嫌だ。たとえその原因が、自分であったとしても。

 片腕を目元に当てて、必死に涙を零さないように押さえていると、突然、ふわりと肩を何か柔らかいものに包まれた。
 これは、僕のパーカー。……僕にこんなことをするのは、この世界中で、ただ一人。
 その姿を確かめたくて視線を上げようとするけれど、生憎それは伸びてきた腕に頭を押さえ込まれてしまって叶わなかった。
「こんなところにいた」
「…………」
「どれだけ探したと思ってるわけ?」
 ああ、それは僕の、一番聞きたかった声。僕は頭を押さえる腕をぎゅっと掴んで、その顔を視界いっぱいに捉えた。





「…………ねえ、」
「…………なあ、」
 ごめん。とうとう耐えきれなくなって、僕たちは同時に呟いた。
 許して、くれるんだね。繋いだ手の温かさが心地良かった。
 アツヤは笑っていて、いつの間にか僕も笑っていて。君の目元が少し濡れていたのは、僕がちょっとだけ泣いてしまったから、そういう風に見えちゃっただけなんだろう。
 きっと、そうなんだ。


2012.4.6
2019.3.5 修正


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