生存設定





 冬休みのとある一日。
 庭に雪が盛大に積もってしまってサッカーが出来ないので、特にこれといってすることが無くなってしまったアツヤは炬燵に潜ってテレビを見ていた。
 士郎は新聞の広告を整理しながら、そんなだらしのないアツヤの姿を垣間見て、苦笑しながらため息を吐く。
「そんなにゴロゴロしてると鈍っちゃうよ?」
「今日一日何もしないくらいなら何ともねえって」
「でもちゃんと起きてるくらいはしてなきゃ」
「たまには寝てたっていいだろー」
 そりゃそうだけど……と士郎はアツヤの言い分を全否定は出来ないでいたが、とある一枚の広告を見付けた瞬間、アツヤを起こすために強行手段に打って出た。
「ねえ起きて! アツヤ起きて!」
「ぎゃああああやめろ寒い!」
「これ見て! これ!」
 士郎が炬燵の掛け布団を勢い良く引っ剥がし先程見付けた広告を見るように促すと、アツヤは必死でそれに抵抗し、掛け布団を奪い返してから士郎の手の中にある広告を見た。
「……スキー場……宿泊客……割引……?」
「そうみたい。期限、明日までだって。ね、行こうよ、スノボ!」
 宿泊でスキー場に来る客は幾分か割り引かれるという広告の大まかな内容をアツヤが声に出して読むと、士郎はスノーボードをしに行こうとアツヤの体を揺さぶって言った。
「んなまた急に……」
 温かく優しい炬燵の魅力に取り憑かれてしまったアツヤは、いかにもかったるそうな返事をしたが、その口元には笑みが浮かんでいた。
 いくら炬燵の居心地がよくても、スノボに行くと聞いたら、もうこうしちゃ居られない。アツヤは炬燵から飛び出ると急いで荷物を纏め、やっぱり単純なんだから、とまたも苦笑していた士郎の準備が終わるのを待った。



 日の光を受けた雪はそれを跳ね返しながら自身も眩しく輝いている。遠くの山には粉砂糖をかけたかのような雪が積もっている。
 昨晩はどうやら晴れていたようで、放射冷却によって外気は頬を突き刺すばかりに冷たいが、雪を滑って熱くなるであろう体には寧ろ丁度良いくらいの気温だった。
「うおーやっぱすげえなあ」
 壮大な景色を見て、白い息を吐きながらアツヤは思わず声を上げた。それを聞いた士郎はアツヤの隣で満足気に微笑んでいる。
「やっぱり来て良かったね」
「そうだな」
 早くもアツヤは二人分のリフト券を購入し、スポーツバッグからウエアやブーツを取り出し、早く滑ろうぜ、と士郎を急かした。寒くてどんなに動きたくなくても、雪山を見ればこの通りだ。
「ふふ、分かってるよ」

 冬休みということもあってか、スキー場はなかなかの混み具合だった。思うように滑れなくてもどかしい思いをすることもあったが、それでも士郎とアツヤは滑れることに満足していた。
 このスキー場はコースの種類が非常に豊富で、今日の昼間に滑っただけではまだまだ飽き足りない。泊まり掛けで来て正解だったな、と夕飯を口に運びながらアツヤは強く思った。
「ナイターは夜景がすごく綺麗なんだって」
 何処かのスキー客がそう言っていたのを小耳に挟んだらしく、士郎はアツヤに言った。
「ナイターって滑れるところは減っちゃうんだっけ」
「うん、リフトで一つ二つくらいは上がれると思うんだけど」
 ナイターか……、とアツヤは小さく呟いた。思えば士郎とスノボに来たことは何回もあれど、これまで一度もナイターに行ったことはなかった。
滑れるコースは制限されてしまうとのことだが、夜景が綺麗だと言うし、何より昼間とは違い他の客も少ないだろうから、もしかしたら士郎と二人きりで滑ることも出来るかもしれない。
「今七時か……じゃあ、七時半に一番のリフトのとこに集まるってのは?」
「わ、ナイター行ってくれるんだね! いいよ!」
 アツヤが集合時間を提案すると、士郎は二つ返事で快諾した。それじゃあ、先に行ってるね、と余程ナイターに行きたかったのか、士郎は弾んだ足取りで夕食会場を後にした。

 吐く息が白い。やはり昼間に比べてだいぶ気温が下がっているようだ。澄んだ空気はまたも頬を鋭く突き刺す。
 思っていた通り、ナイターを楽しんでいる客は少なかった。さらに、一番上のコースは滑っている客など一人もいなかった。好機だ。図らずもアツヤの口元は上向きの弧を描く。しかし一方で、
「(……遅い)」
 アツヤは時計を睨んでイライラしながら士郎を待っていた。
 先に行く、と言ってうきうきと宿泊部屋に戻って行った士郎の姿が未だに見当たらないのだ。集合時間を疾うに十分は過ぎている。あれほど嬉しそうにしていたのだから、急に行きたくなくなったとか、そういうことはない筈なのだが。
 アツヤはもう一度ゆっくりと息を吐き、その白が空に解けていく様子を見届けた。すると、待ち続けていた姿が漸く向こうの方から見えてきた。
「先に行ってるんじゃなかったのかよ」
「あはは、ごめん」
 テレビが面白くて、つい、と士郎は頭を掻いた。
「まあ、いいや」
 士郎が来てくれるなら、遅くたって構わない。行けるとこまで行ってみようぜ、とアツヤは一番上のコースを指差した。

 アツヤは先にリフトから降りて士郎を待っていた(士郎は来る時にボードに両足を付けていたので、士郎がボードから片足を外している間に、既に片足を外してあったアツヤが先にリフトに乗った)。
 自分が一番高いところにいるという心理的なものも働くのか、見下ろす夜景は今まで見たどんな夜景より垢抜けていた。
 民宿や信号の灯り、車のライトが揺らめき、黒の世界に不可思議で細密な模様を描いている。ただ眩しいだけかと思えばそうではない。周りに積もった雪がその光を吸収し、映りを朧気で温かにしている。綺麗だ、とアツヤは素直に感じた。
 一頻り夜景を楽しんだところで、そろそろ士郎も来る頃か、とアツヤは体ごと後ろを向いた。間もなく士郎が降りてくる。
「わあ、本当に綺麗だね……うわっ!」
 あまりにも夜景に見惚れていたのか、士郎はアツヤとの距離感を計りきれず、止まり損なって転んでしまった。
「大丈夫か……うおっ!」
 そして転んだ士郎はやはり止まれず、そのままアツヤにぶつかって、アツヤまで倒れてしまった。
「(やべえっ……!)」
 アツヤは士郎を潰すまいと、咄嗟に士郎の顔の両脇の雪に手を突いた。
「あはは……ごめん」
 申し訳なさそうに笑う士郎。その少し雪がかかり、髪の乱れてしまった顔を見て、アツヤはどきっとした。
「いや……大丈夫だけど……」
 まるで雪の白さに溶けていってしまいそうな微笑みだった。あの夜景にも劣る筈のない、繊細な微笑み。
 それきり二人は互いの顔の違う部分を見つめ合ったまま、何も言えなくなってしまった。
「息……白いね」
 暫くしてから、士郎が静かに呟いた。そう言う間にも、白は解けて空に同化していく。雪の白に混ざっていくようにも、アツヤには思われた。
「さみいもん」
 夜だし……とアツヤは付け足した。きっと自分の鼻の頭は赤いのだろう。それはこの夜景には、いや、士郎から見て自分の背景になっている夜空には映えはしないだろうけど。
 士郎の吐く息は、士郎のこの笑みは、どうしてこんなにも儚く消えてしまいそうに見えるのだろうか、とアツヤはまた黙りこくってしまった。
「寒いなら早く滑っちゃおうよ」
 今まで自分が倒れていたことを今更思い出したかのように、士郎は肘を突いてゆっくりと起き上がった。
「……おう」
 アツヤは破られた穏やかな沈黙の瞬間を名残惜しく思ったが、言われてみれば自分たちは滑りにきたのだった。昇ってきたのなら、降りなければならない。
いつまでも、儚さに纏わり付いてばかりなどいられないのだ。
「じゃあ、先に行ってるからね」
 いつの間にボードに片足を付けたのだろうか、まだアツヤがボードから外していた片足を付け終わらないうちに、士郎は先に滑って行ってしまった。
「えっ……あっ、おい、士郎!」
 また、「先に」だ。アツヤも急いで士郎の背中を追い掛ける。
 儚さは自分じゃ消してやることも救ってやることも出来ないけれど、滑るべきコースの雪の白さは儚くも何ともなかった。ただただ確かな存在感があって、この雪だって白いのにな、とアツヤは思った。
 白いことだけが、白だけが、存在の範疇から外に出たがって、朧気になっているとか、そんな筈はない。
 だから、そしたら、通りすがりにあの白さの中に見えた仄かな頬の赤みだって、きっと嘘なんかじゃないんだろう。





2012.2.12
2014.9.24 修正


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