士郎は自転車を押しながら、ふっと空を見やった。
桜の枝が視界の端にちらりと映る。冬の寒さを耐え忍んだ桜の蕾が、白く色付いて綻び始めている。
そういえば、外に出るのにもさほど厚着をしなくなった。少しずつ、寒さも和らいできているのだ。さらに日が進めば、暖かい日の光に促されて、この桜は見事な花を咲かせてみせてくれることだろう。
今は、ちょっとした買い物の帰り。あんな夢を見た後では、ベッドから抜け出すことすら実に億劫だったのだが、食料が切れかけていれば仕方がない。嫌でも重い腰を上げなければならなかった。
家に帰る道の途中、空を飛び交う鳥を見かけた。道端の草も青くなってきている。中には、かわいらしい小ぶりな花をつけているものもあったりして。
そう自分の周りがどんどん春めいてくる中で、士郎は自分一人だけがまだ冬の終わりに佇んでいるような感覚に陥った。
春の訪れを素直には喜べない。かといって、もう冬の真っ只中にも戻れない。
どうにも抜き差しならない心を抱え、士郎は見上げた視界の隅に映った桜の木に力なく笑いかけた。
――その花が咲いた時、その色が誰かに似ているから困るんだ。
士郎はハッとして自転車に跨った。そのままシャッとそれを漕いで帰る。
とにかくそこから逃げ出したかった。どこに行きたいかなんて分からなかった。ずるいと分かっていながら、どうにもならない気持ちから目を逸らした。
それでも春は士郎を追いかけてきた。逃がしてくれなかった。春の色が目に沁みた。春の匂いで鼻がツンとした。再三、視界が眩んだ。
嫌だな、春って。
その日の夜も、また夢を見た。
今度は冬の山で、彼と雪玉を投げ合っていた。二人とも雪まみれになって、大汗かいて遊んでいた。そして疲れて雪のクッションに後ろ向きに倒れ込む。
「ね、にいちゃん」
こちらを向いた、自分と同じ色の瞳には、紛れも無い自分が映っていた。
それなのに、何かがおかしかった。
こんなに近くにいるのに、彼の言葉がそれ以降全く聞き取れない。額から頬へ、そして首筋へ汗がつっと流れていった。雪が降り出して寒くなってきたのに、汗をかいている。嫌な感覚だった。
「……アツヤ!?」
雪で視界が悪くなってきたと思ったら、すぐに吹雪にかき消されて、隣にいたはずのアツヤの姿が見えなくなった。士郎は飛び起きる。
「う……はあ、はあ、ああ…………夢か……」
暖を取るように、自分の両手で両腕をさする。夢の中と変わらないのは、体中汗だらけということだけだ。
「(嫌な夢……)」
士郎は再び布団にくるまる。
君がいなくなる夢なんて、……いや、夢でなくたって、もう十分なのに。
その夜も、また次の夜も、士郎は同じような夢を見ては、同じように飛び起きた。
士郎とアツヤのいる場所と季節だけは、いつも違っていた。ある時は太陽が強く照りつける海岸だったり、ある時は綺麗に色付いた木々が錦を織り成している山だったり。
はっきり思い出せるほど鮮明で美しい風景の中で、二人は楽しく遊んだ。しかし、最後は必ず、先の夢の花吹雪や激しい雪の如く、大きな波や濃い霧がアツヤの姿をかき消してしまった。
そばにいる筈の彼の声が聞こえない。彼の手に触れられない。しまいには姿形さえも消えてしまう。こんなに虚しいことが、他に存在するだろうか。
士郎はいつも、大声で叫んだままか、腕を伸ばしたままで目を覚ました。
幾晩も幾晩もこの類の夢を見て、士郎はとあることに気が付いた。
アツヤが消えていく直前、彼は必ず何かを士郎に言いかける。そう、いつもそれを聞き届ける前に、彼は消えてしまうのだ。
士郎は考えた。ある直感があった。
否、アツヤが僕に伝えたいんじゃない。あの景色、あの場面の中で、アツヤは確実に何かを言った。
それは、その言葉は、ただ単に僕が忘れてしまっているだけのことなんじゃないか。
アツヤが消えていってしまう寸前の、楽しそうに、嬉しそうに弧を描く口元を思い出した。そうだ、だってあの顔、全然苦しそうに見えないんだもの。
士郎は片っ端から記憶の箱を開けにかかる。今まで見た夢のあの景色に、どこか懐かしさも感じていたから。
脳裏に訴えかけてくる横顔、声、潤んだ瞳、それらは何を思い出せと
2012.9.1
2012.12.5 修正