無数の薄桃の切れ端が、視界をその色に染め上げていく。風はさほど強くはないのに、花吹雪が止まない、止まない。
 士郎は小さな片腕を目の上に掲げる。飛び交い荒れ狂う花びらたちの圧力に押し返されてしまって歩みを進めることが出来ない。
 無情な花吹雪から我が身と視界を守るのが精一杯なのだから、この霞の先にいる筈の人を探すことなんて、到底出来るわけがなかった。
 いよいよ薄桃が完全に視界を支配し始める。
 誰に会いたいのか、自分は泣きたいのか、もう一度その手を握り締めたいのか、何もかもがよく分からないまま、とうとう士郎の思考も全て花吹雪に攫って行かれてしまった。



 妙な目覚めだった。
 何故だか気怠くて起き上がる気になれず、士郎は寝た姿勢のまま額に手を当てた。
 ――僕は、何をしていたんだろう。……あ、アツヤは?
「アツヤ……」
 霞に埋もれていったその人の名を反芻して、漸くはっきりとした意識が士郎に戻ってきた。
 さっきまでの朧気な感覚は何処へやら、額に当てた自分の手の感触が、まるで鉄の塊を当てているかのように冷たく、重く感じられた。

 ……夢だったんだ。

 士郎は安堵とも悔恨とも言い難い、微妙な心境でため息を吐いた。
「(どうして今さら、あんな昔のことを……)」
 幼い頃、家族みんなで花見に行った時のことが、見た夢を通して次々と思い出された。
 母に手を引かれ、咲き誇る桜の木と人の群の中を通り抜けた。父とアツヤが少し先で待ってくれている。両親が花見の準備をしている間に、アツヤと二人でお堀の橋のところまで行って、静かな水の音や雅楽の音色を耳に挟みながら月と桜を眺めた。
 始終周りや感覚が朧気であったことと、最後に花吹雪でアツヤが見えなくなってしまったこと以外は、全部自分が体験したことだった。あれは、単なる夢の中の出来事ではないのだ。
 士郎は漸く上体を起こした。きっちりと閉めたカーテンの隙間から、太陽の光が漏れ出している。
 この部屋のじめっとした重たい空気も、窓を開けたら少しはマシになるかな。
 そう考えて士郎はカーテンと窓を開けた。眩しい日の光が一斉に士郎と士郎の部屋を照らし出す。さほど冷たくはない風に乗ってやってきたのは、春の訪れがそう遠くないことを告げる、むずっとした香りだった。
 その香りを思い切り吸い込むと、士郎は噎せ返ってしまった。思ったより、匂いが濃かったのだ。
 早く息を取り戻そうと荒い呼吸をしながら、士郎の頭の中では記憶の波がぐるぐると渦巻いていた。
 まだ完全に春が来た訳ではないのに、すっかり浮かれてしまっている風に涙腺が刺激されて、視界がじわりと滲む。風の匂いに、楽しかったことばかり思い起こされるから、かえってそれが辛かった。

 もう、いっそのこと、全て忘れてしまうことができたら。

 そう考えて、士郎ははっとして自分の両手を強く握り締めた。そのまま、ぎゅっと体を縮こまらせる。
 ……そんなこと、できるはずないよ。
 俯いた士郎の髪を、いたわるようにか、からかうようにか、風が揺らしてはすり抜けていく。
 ――そう言えば、あの時花吹雪を起こしたのも、こんな風だったか。


いくら抗っても、この小さな素手じゃ春の魔力に勝てる筈がないのに


2012.3.20
2012.12.5 修正


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