まるで湧き上がるように空に満ちているのは、人の笑い声。時折、遠くからの管絃の優雅な響きも混ざってくる。
 灯籠やランプの灯りがほのかに辺りを照らす。そして、緩い風に揺られてはらはらと舞い散る、淡い色合いの、儚さの花びら。
 目に見え耳に聞こえる全てがなにとなしに朧気で、確かに地に足を着けているはずなのに、どこかふわふわと落ち着かず、何故か自分だけが違う世界にいるようだった。
「にいちゃん!」
 そしてアツヤが自分を呼ぶ声で、士郎は我に返る。

 士郎とアツヤは、近くの公園で行われている夜桜会に来ていた。無論、夜に小さな子ども二人だけで来れるはずがない。
「ほら、おいてっちゃうよ!」
 苦笑しながらそう言って士郎に手を差し出す母。その先には、カメラや荷物を持った父と、早くしろよ、と口を尖らせているアツヤがいる。
「う、うん」
 士郎はぎこちなく母の手を握る。これまた不思議な感覚だった。自分が母の手を握っているのも、母が自分の手を握り返してくれているのも、ちゃんと見て分かるのに、握っている母の手の感触、握られている自分の手の窮屈な感じが、ほとんどしないだなんて。
「どうしたの? あんなに楽しみにしてたのに」
「…………ううん、どうもしないよ」
「そう?」
 母に手を引かれながら、士郎はわけの分からない感覚に泣きそうだった。それを許してくれる人、その感覚を説明してくれる人が一人でもいたら、士郎は今すぐにでも大声を上げて泣き出しただろう。
 しかし、通り過ぎてゆく人の群れ、楽しそうなざわめき、高く遠く響く雅楽の調べ、甘美な香りを撒き散らす温い風に、士郎の涙は押し留められてしまった。

 おかあさん、こわくないの?

 母の笑顔はいつもと変わらないのに、辺りの風景にだって何にも問題なんてないのに、どうして自分はこんなに怖くて、泣きたいんだろう?
 席取りをしてあった場所に着いて、父と母が花見の準備をしているのを見ても、士郎はどうしたら良いのか分からずに立ち竦んでいた。
 すると、突然、アツヤが士郎の手を強く握った。士郎は目を見開く。あのいたずらっぽい瞳と目が合った。
「にいちゃん、あっちいってみよう」
 そう言ってアツヤは士郎の手を引っ張る。
 士郎は驚いた。だって、この手、アツヤの手は、痛いと思えるほど、僕の手を握っているのが分かるんだ。
「あんまり遠くに行かないでね!」
「だいじょうぶだって!」
 そして、士郎はアツヤが引っ張るままに連れて行かれた。士郎には、この強くてしっかりした手の感触だけが、頼りだった。

 暫く行くと、柵の張り巡らされたお堀に突き当たった。
 向こうの広場で管絃の演奏をしているのか、さっきよりも音が近く感じる。その他に耳に入るのは、静かに水の流れる音だけ。もはや、人の声は後ろに置いてきてしまった。
「……あのはしのところにいったら、もっときれいにみえるかも」
 士郎の小さな呟きを、アツヤはしっかりと聞き取った。
「じゃあ、いってみるか?」
「うん!」
 士郎は大きく頷いて、自分からアツヤの手を握る。
 先程から心の中に渦巻いていた、よく分からないふわふわしている不安が、少しずつ解けていくのを感じた。人の群れを離れてアツヤと二人きりで居るからだろうか、確かな根拠はないけれど。

 橋の中腹程まで来て、二人は歩みを止めた。満月が辺りを照らしていて、本当は灯籠もランプも必要ないくらいには、ほんのりと明るかった。
 生温い風が吹いて、水面に映る月の影を震わせ、塵と調べと匂いを遠くまで運び、桜の花びらを散らす。

「にいちゃん、あのさ」

 花びらの群れはすぐこちらにやってきて、アツヤがそっと呟いた言葉の先を攫っていってしまった。
 ああ、花吹雪に霞んでしまった。その笑顔も。


忘れじと、変わらないもの追い掛けて、夢とも知らず、現とも知らず


2012.2.28
2012.11.21 修正


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