こんな感覚、初めてだった。桃髪の少年は、手を開いたり閉じたりしてみる。指が動かせる。彼の両足はしっかりと地面を捉え、柔らかい髪の毛は風に揺れている。
 ……否、初めてではない。爽やかな空気で肺を満たすことができる。空に目を転じて、太陽の光に目を細めることができる。この感覚が久しぶりすぎて、初めてのように感じるだけなのだ。
「(じゃあきっと、声も出せるんだろうな)」
 少年は腕組みをして考えた。ちょうどその時、近くの家から、肩にスポーツバッグを提げた銀髪の少年が出てきた。そして彼の前を走り抜けようとした時、彼は大声で呼び掛けた。
「おい!」
 おお、思ったよりも大きな声が出た。やっぱり喋れるんだ。彼は一人でそう驚き、感心していた。そして呼び止めた銀髪の少年に視点を合わせると、その少年は自分より遥かに驚いた顔をしていた。
「どうした、俺の顔に何か付いてるのか?」
「い、いや……」
 銀髪の少年は気まずそうな、そして期待外れのような顔をして桃髪の少年から視線を逸らした。
「それよりお前、どっか行くんじゃないのか?」
「あっ、サッカーの練習……」
 銀髪の少年は途端に慌て出した。急いで時計を確認するが、どうやら時既に遅しの状態のようだった。しかし桃髪の少年にはそんなことを気にしている余裕はなかった。先程銀髪の少年が口にした、「サッカー」という言葉にひどく惹き付けられたのだ。
「(どうしたんだろう。……今コイツ、サッカー、って言ったな。その言葉を聞いただけで、こんなにどきどきしてる。俺はその、サッカーを、したことがあるのか)」
「あ、あの」
 頭に手を当てて考え込んでいた桃髪の少年に、銀髪の少年は声を掛けた。
「良かったら、君も、来ない?」
「……行く」
 銀髪の少年の誘いに、桃髪の少年は頷いた。もやもやするくらいなら、体感してみる方がいいだろう。ほら、道端の石ころだって蹴れるんだ。今の俺にだったら、何でも出来るんだから。



 銀髪の少年――吹雪士郎が練習場に着いた時には、チームメイトたちはもう既に練習を始めていた。士郎はため息を吐き、大きな声で呼んだ。
「キャプテン!」
 その声に反応したバンダナの少年が、「吹雪!」と彼らの方に走ってくる。
「珍しいな、吹雪が遅刻するなんて」
「ごめん。ちょっと、いろいろあって」
「あれ、そっちにいるのは――」
 バンダナの少年は桃髪の少年を目にした途端、言葉を失った。当然だ。もうここにはいない筈の人間が、ここにいるのだから。しかも、髪の色を除いては、彼の記憶に姿形まで生き写しなのだ。
 しかし、当の桃髪の少年は何が起こっているのかが理解できない。バンダナの少年の後を追ってきた少年たちも自分を見るなり目を見張るから尚更である。
「ねえ」
 士郎が振り返る。
「まだ名前、聞いてなかったよね」
「ああ」
 俺はアツヤだ。何かを確かめるような士郎の口調を訝しがりながらも、桃髪の少年――アツヤは答えた。
「お前は?」
「僕は吹雪士郎」
 諦めに似た、今まで張り詰めていた気をふっと抜いたような笑顔で、士郎は言った。
「吹雪……士郎……?」
 その名を聞いた途端、アツヤはまた頭に手を当てて考え込んだ。すごく、聞き覚えのある名前。そして、温かい毛布にくるまれるような、感覚。


 分かった――。


 アツヤが士郎と目を合わせた瞬間、辺りに砂埃が舞い上がった。誰もが立っていられないような強風。
 士郎は今朝見た夢を瞬時に思い出し、身震いをした。まさか、折角出会えたのかもしれないのに、またいなくなっちゃうの? 士郎は必死でアツヤの名を呼ぶ。砂埃の中で、耐え、もがきながら。すると突然、誰かの手が士郎の手首をぎゅっと掴んだ。
「――兄ちゃん!」
 その声で、士郎は確信するのだった。

 ――帰ってきた。



 周りの話によると、二人揃って突然倒れ込んでしまったとのことで、士郎とアツヤはベンチで練習の見学をさせられていた。
「つまんねえな」
 折角サッカーしに来たのに、とアツヤが呟く。
「安静にしてろって言われちゃ、どうしようもないね」
 士郎の言葉を聞いてアツヤが舌打ちをすると、士郎は、僕だってサッカーしたかったさ、と小さく呟いた。

 ……夢を共有した。
 士郎はそう思った。あの光景は、今朝見た夢にそっくりだったからだ。会いたいと、消えないでと思ったから、今アツヤはここにいるのか? そもそも、アツヤがここにいていいのだろうか。
 だけど、神様、一つだけ言っても許されるのなら。……僕は、嬉しい。アツヤに会えて、嬉しいよ。

「ねえ、本当にアツヤなんだ」
「ああ」
「……何かあったの?」
「分かんねえ」
 何かあったの、と聞かれても、出てきてしまった本人にもなにも記憶がないのでは答えようがない。分かんねえ。アツヤはもう一度言った。
「ふふ、まあいいや。……またこうしてアツヤに会えるなんて、思いもしなかった」
「俺も、士郎に会えるなんて……」
 その後は言葉にならなかった。どうしようもなく泣き出したくなってしまって、見れば士郎も同じ顔をしていた。何でだろうね。泣きながら笑う士郎に、変な顔すんなって、とアツヤが鼻を啜りながら答える。
「こういう時は、こうするといいんだって」
 目尻を拭ってそう言いながら、士郎は自身の手にアツヤの手を重ねた。そして、へへ、と照れたように笑うと、アツヤの体に体重を預けた。
「アツヤもおんなじようにしてよ」
「ああ」
 アツヤも士郎と同じように手と手を握り、頭と頭を寄せ合うと、お互いのその温もりに安心した。
 分からない。だけど、心の奥では、何となく分かっていた。久しぶりに感じる温もりも匂いもその存在という重さも。誰にも言えなかった、自分にも分からなかった、寂しい部分、心の隙間。満たし、満たされてゆく。眠りの世界ももう、そう遠くはない。


アンチテーゼ:ユートピア


 今度の夢では、君とずっとずっと遊んでいられますように。


2011.9.1
2019.3.11 修正


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