取り残された蝉時雨の続き





 そうして、どれくらいそこにしゃがみ込んでいただろう。
 あれほど強く照りつけていた太陽も、今ではその勢いは弱まってしまっている。代わりに、暗雲が重く垂れ籠めてきた。
 それは瞬く間に、土砂降りの雨になる。鋭い日差しが容赦なく士郎を突き刺すのではなく、大きな雨粒が容赦なく士郎を叩き付けるようになった。

 突然気圧が低くなった所為で、上手く呼吸が出来ない。おまけに、強い雨に打たれて体も冷えてきた。上着を着ていたとはいえ、Tシャツ諸共びしょ濡れになってしまっては意味がない。
 士郎は木陰に避難しようかとも考えたが、足が動かなかった。まるで、足の甲に釘を打たれてしまったかのように。

 ぜえぜえと浅く荒い呼吸を繰り返し、暖を取るように両手で両腕をさする。降りしきる雨の所為か、だんだんと削られていく体力の所為か、視界が霞んでまともに前を見ることが出来ない。
「……っ、」
 苦しい。とうとう士郎は地面に片手を突いた。急激な気温と気圧の変化により、士郎の体力は限界に近付きつつあった。髪の毛からも水滴がぼたぼたと落ちていく。
 突然、視界が白く光ったと思ったら、黒い空がごろごろと低い音で唸った。とうとう雷まで鳴り出したのだ。
 士郎は慌てて両手で自分を抱きかかえるようにし、その中に顔を埋め少しでも雷の音を聞くまいとした。雷は割と近くに落ちているようで、士郎のそんな行動も虚しく、ばりばりと鼓膜を揺るがす嫌な音は嫌でも耳に入ってきた。

 どうしようもなかった。
 今すぐにここから逃げ出してしまいたいのに、強い雨が、激しい雷が、士郎をここに留めようとする。何より、自分の両足が動くのを厭うのだ。足が、動かないのだ。
 今、一際大きな雷が落ちて、士郎はびくりと肩を震わせた。その時、視界の隅に、白い何かがちらついた。まさか。士郎は目を見張る。

 士郎が自分と同じ浅葱色の目を見留めた瞬間、士郎の荒い呼吸音以外の世界中の全ての音が、二人の前からふつりと消え去った。
 何もかもが自分から遠くなって、まるで、二人の輪郭だけが薄いベールに包まれているようだった。
「ア……ツヤ……?」
 士郎の言葉に反応し、彼は小さく頷いた。士郎は彼に触れようと手を伸ばすが、あと少しのところでバランスを崩してしまった。
 すると、アツヤがさっと動いて士郎の体を支えた。その手の温度はさほど高くはないが、体が冷え切ってしまっている士郎には非常に温かく、そして優しく感じられた。
 アツヤは士郎に膝立ちをさせると、そっと両手で士郎の両頬に触れた。
「……どうして……?」
 士郎は細い声で彼に問う。彼は答えた。
「士郎の声が聞こえた」
「僕の声……?」
 士郎の言葉に彼はまた頷いた。思わず溢れそうになる涙を堪えて、見つめてくる彼の目を真正面から見つめ返す。
 アツヤが士郎の頬に両手で触れているように、士郎もアツヤの頬に触れようと思ったが、どうしたことか腕に力が入らない。別の意味で涙が出そうになった。
「……泣くなよ」
 アツヤが呆れたように苦笑するのを見て、士郎は泣いてなんかないと答えようとしたが、とうとう声までもが出なかった。おまけに、頭痛が酷い。
 アツヤに会えたら、言いたいこと、聞きたいこと、いっぱいあったのにな。せっかくこうして出会えたのに、どうして何も言えないんだろう。
 士郎が何も言わないのを不思議に思ったのか、アツヤは何か喋ったが、士郎はそれすら聞き取れなかった。
 代わりに、雨音とはまた違うノイズが士郎の聴覚を掻き乱し始める。そうしている間に、頭痛もどんどん酷くなっていく。
 士郎はアツヤを見放すまいと必死で目を開く。
 ああ、雨、止んでなかったんだ。士郎の髪の毛もアツヤの髪の毛も雨に濡れてくしゃくしゃになっていた。
 アツヤが士郎との顔の距離をだんだんと詰めてくる。二人の距離が詰まれば詰まる程、士郎の耳鳴りと頭痛は酷くなっていった。今にも耳は引き千切れてしまいそうで、頭は割れてしまいそうだ。
 士郎はこつんとお互いの額が触れ合う前に、アツヤの口元が優しく弧を描くのを、辛うじて開いていた瞳に捉えた。



 気が付くと、士郎はまたアスファルトの道に立っていた。

 ――また?

 僕は今までこの道を歩いていたのだろうか。士郎は首を捻る。
 耳に届くのは、蝉の鳴く声と、風に揺られる草木の音。青い空には綿菓子のような白い雲が浮かび、道路や草原のはっきりとした色合いが印象的だ。
 ここを歩いていたのは少し前のことの筈なのに、士郎は何も思い出せなかった。

 まあ、いいか。

 士郎は再び歩き出す。一陣の風が吹いて、士郎の髪をふわりと舞わせて去っていく。見上げた強い日差しも、さほど気にはならなかった。
 士郎の足取りは軽く弾んでいる。さあ、ここから、一体どこまで歩いていけるんだろう。


見たのは幻影か、それとも


2011.8.25
2013.5.14 修正


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