※士郎はピアノが弾ける設定





 ピアノが一台、そこにあった。

 わあ、懐かしいなあ。

 士郎はピアノに駆け寄った。蓋を開けると、音楽の世界への扉を開く白と黒の鍵が整然と並んでいた。
 士郎は椅子に座って、一度深く息を吸って、吐いた。始めの音をポーンと叩くと、後は勝手に両手が動いた。

 もう何年も鍵盤になんか触れてなかったのに、まだこんなに弾けたんだ。

 心地良い響きに夢中になってしばらく弾き続けていると、士郎の旋律の間にきらりと輝くはずの合いの手が入ってこないことに気が付いて、士郎は手を止めた。

 そうか、この曲、連弾だったんだ。

 士郎はリズムが不正確で、彼は力が強すぎて、士郎たちは決してピアノが上手ではなかったが、この連弾だけは彼らの十八番だった。これを聴いた誰もが「息がピッタリだ」と誉めてくれたのだ。
 士郎は左に座り直して、今度は彼のパートを弾いてみた。彼らはそれぞれのパートを入れ替えて弾くこともしばしばあった。彼のパートを弾くと、力が漲ってくるような気がして面白かった。
 でもやっぱり、主旋律が入ってこないのは寂しくて、あまり弾かないうちに士郎は弾くのを止めてしまった。途端に辺りに静寂が訪れる。さっきまで楽しそうに震えていた空気は少し冷めてしまったようだ。鍵盤も、もっと弾いて欲しいと物足りなさそうにしている。
 士郎は何か他の曲を弾いてみようと思ったけれど、駄目だった。途中まで弾けてもその先が思い出せなかったり、右手と左手のタイミングが合わなかったりして。
 ふう、とため息をついて、士郎はもう一度、あの始めの音を叩く。ポーン、ポーン、と、何回も。すると、幼い頃の士郎が脳裏に蘇った。

 彼がいなくなってしまった後も、やはり士郎はピアノを続けていた。しかし、事故のショックからか思うように弾けないことが多くなり、だんだんピアノのレッスンにも通わなくなっていった。そして、ふとこの連弾を弾いた時、やはり彼の合いの手が入ってこないことに気が付いたのだ。

 どうりで僕はそれ以来ピアノを弾かなくなったわけだ。じゃあ何でこの連弾だけは今でも弾けるのかって、それはまだ彼がいた頃に、殆どこの曲しか練習しなかったから。僕らが双子だからって、家にピアノが二台もあるはずがない。二人で一緒に弾けるようにって、ずっとこればっかり練習してたの、君は覚えてる?
 ……本当は、そんな合理的な理由じゃなくて、僕は、君とピアノを弾くのが楽しかったから、ずっとこの曲を練習してたんだけど。

 士郎はもう一度、連弾を最初から弾き始める。

 そうだ。今度、この曲を一人で弾けるように、編曲してみよう。それにはまず、ピアノの練習をまた始めなくちゃね。

 士郎が鍵盤を叩く度、生み出された音は空気に乗って絡まり合い、複雑で優雅な調べの模様を描きだす。今度は全ての合いの手が、はっきりと聞こえてくる気がする。


風に聴け、さらば君聴かん懐かしき声を


(……気がする、じゃねえよ馬ァ鹿……)





主催企画「風に響け」に提出


2011.6.16
2019.3.11 修正


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