私と拓人くんは、幼稚園の頃からの知り合いだ。

 ある日、お母さんに用事があっていつものレッスンの開始時間よりも早くピアノ教室に来た私が見たのは、私と同じくらいの男の子が、その歳には似合わない神妙な顔付きをしてピアノを弾いている姿だった。
 私が初めて拓人くんに会ったのは、その時だった。
 彼のその姿は、当時の私には余りにも衝撃的すぎたのだろう、今でも脳裏に焼き付いて離れない。凡そ幼稚園児が弾いたとは思えない、甘美な調べの中の、どこかもの悲しい響きも。彼は当時から、ピアノが上手だった。
 それから何回も、レッスンや発表会で拓人くんに会った。レッスンの空き時間には、私が弾くのを指導してもらったり、連弾をしてみたり。発表会の時には、舞台袖で緊張していた私にそっと「大丈夫だから」と囁いてくれて、おかげで私は何とかいつも通りくらいの演奏をすることが出来た。
 私の演奏が終わって、その次は拓人くんの番だった。拓人くんが椅子に座って、そっと鍵盤に両手を置く。彼が小さく息を吸った瞬間から、周りの空気は全て、ただの気体から彼の音楽に姿を変えた。
 私は舞台袖から、拓人くんがピアノを弾く様子をじいっと見つめていた。私は、彼のピアノと、彼がピアノを弾く姿が好きだった。それは、初めて彼を見た時から変わらない姿で。気付いた時には、彼の演奏は既に終わっていた。大きな拍手に送られて、拓人くんがこちらに向かって歩いてくる。私も拍手をして出迎えた。
「すごく良かった」
「ありがとう」
 名前も、と言われて微笑みかけられて、どきりと心臓が跳ねた。お返しのありがとうも、掠れた小さな声しか出ない。
 もしかしたら、もしかしたら。
 私は拓人くんがピアノを弾く姿じゃなくて、拓人くん自体が、好きなのかもしれない。

 それからの私は、敢えてピアノのレッスンが始まるより前にピアノ教室に行って、彼に会おうとした。今までも、私のレッスンの前に拓人くんのレッスンが入っていたから。
 しかし彼は、だんだんピアノのレッスンに顔を出さなくなった。全く会えない訳ではないが、会える回数がかなり減ってきていた。私は彼がピアノを辞めてしまうのではないかと不安になって、先生に尋ねた。すると、意外な答えが返ってきた。
「拓人くん、サッカー始めたんですって」
 その晩、私はご飯も食べずに、部屋でクッションをぎゅっと抱き締めて泣きに泣いた。彼はピアノを完全に辞めてしまう訳ではないと先生は言っていたが、不安で不安で仕方がなかった。
 私の知ってる拓人くんが、私の知らない拓人くんになっていっちゃう。
 私は、彼にはピアノを弾く姿がお似合いだとすっかり思い込んでしまっていたので、彼が何か他のことに打ち込むなんて考えられなかったのだ。私は諦めきれなかった。先生によると、拓人くんは雷門中に進学するらしい。

 そして4月。晴れて私は中学生になった。私は緊張と不安に駆られながら雷門中の校門をくぐる。受付で名を名乗り、指示された教室に向かった。そしてその教室に入る前に、ぐるっと教室を見回す。
 すると、窓際の席に、頬杖をついてぼうっと外を眺めている、真新しい制服に身を包んだ、慕わしく懐かしい姿を見つけた。私は思わず駆け寄った。
 感激して駆け寄ったはいいけれど、どう言葉を掛ければいいのか分からなかった。もし、拓人くんが私を忘れてしまっていたらどうしよう? 拓人くん、六年生の一学期が終わる頃には、本当にピアノのレッスンに来なくなっちゃったから――
「拓人くん、」
 ぽとりと落ちた呼び掛けに、彼は振り向いた。
「ねえ、私、名前。……覚えてる?」
 拓人くんは驚いたのか、目を見開いて私を見つめている。
「名前……久しぶりだな」
「!」
 思わず涙が溢れそうになった。いけないいけない。拓人くんが訝しげにこっちを見ている。彼が私を覚えていてくれて、『久しぶりだな』と言ってくれたのが嬉しくて、さっきまでの私の不安の殆どはどこかへ消えていった。でも、まだ、消えきっていない不安がある。
「拓人くんは、」
 私は思い切って口を開く。
「ピアノ、まだ……」
「弾けるさ。辞めてない」
 あの頃と同じ真っ直ぐな瞳で私を見つめ、彼は言った。
「先生から聞いた。名前が不安がってたって」
「先生が……?」
 私が小さく呟くと、彼は頷いた。私は驚く。先生は、私の気持ちもお見通しだったんだ。
 突然チャイムが鳴って、席に座るよう担任に指示された。私も自分の席に着こうとすると、拓人くんに名前を呼ばれた。
「俺、サッカー部に入ろうと思うんだ。それで今日、入部テストがあって……」
 良かったら、名前に見に来て欲しい。と言われた。
 自分の席に座り担任の話を聞きながら、私はぐるぐると考え込んだ。
 サッカーをする拓人くん?
 拓人くんが、サッカーを?
 考えれば考えるほど、私の知っている拓人くんからかけ離れていってしまって、想像の中ですら、拓人くんがサッカーをする像は結ばれない。でも、この雷門中というのはサッカーの強豪校で、サッカー部に入るのも、その中で上手くやっていくのも難しいと聞いた。そんなに厳しい道を敢えて選んだ拓人くんを見てみたい。ピアノじゃなくて、サッカーを選んだ拓人くんの決意と思いを。
 放課後、私はとりあえずサッカー部を見に行くことにした。

 帰る準備を済ませて、拓人くんに言われたサッカー部の第二グラウンドに行くと、もう既にサッカー部の入部テストは始まっていた。入部希望の一年生がチームを組んで先輩たちに挑む、という形式のようだ。
 私はサッカーなんてしたことがないからよく分からないけれど、拓人くんがサッカーをしている姿は、なかなか様になっていると思った。たくさん入部希望者がいる中でも、ダントツの動きだと思う。
 ……本当は、サッカーなんか辞めて、ピアノに戻ってきて欲しかった。この数の一年生なら、拓人くんは選外になるかもしれないと、密かに希望を抱いていた。でも、
「頑張って……」
 思わず私の口から零れたのは、彼を応援する言葉。サッカーをする彼はやっぱり見慣れなくて、眩しい日の光を見る時のように、目を細めてしまう。だけど、目を離せなくて、目を離したくなくて、私は自然と拓人くんの動きを追ってしまうのだ。要するに、私が魅了されてしまうほど、彼はサッカーも上手だった。
 そして見事、拓人くんはサッカー部に入部することになった。

 その夜、私はまた考え込んだ。サッカーをする拓人くんとピアノを弾く拓人くんとが、頭の中でごちゃごちゃになる。私はピアノの拓人くんに出会って、ピアノの拓人くんが好きだったのに、彼はいつの間にかサッカーの拓人くんになっていて、でも、サッカーの拓人くんもかっこよくて……。
 私は、私が許せなかったのだ。
 今まで散々、ピアノじゃなくてサッカーをする拓人くんだなんて、と思っていたのに、今日、サッカーをする拓人くんを目の当たりにしてしまったら、また、その格好良さにぐらついてしまった。
 それが、許せなかった。
 私が今まで大事にしてきたものを、自ら台無しにするような感じがして。ピアノもサッカーも頑張ってきた拓人くんに申し訳ないような気がして。
 でも、しばらく考え込んで、私は気付いた。
 ピアノを弾く拓人くんも、サッカーをする拓人くんも、拓人くんであることに何ら変わりはないのだ。
 そのことに気が付いた時、私は開放感に満たされた。そうだ、拓人くんがどうなったって、拓人くんは拓人くんなんだ。いつまでも変わらずにいて欲しいなんて、ただの私のエゴだ。それだけなんだ。
 私は、ずっと彼を応援していこうと決めた。

 雷門中のサッカーの試合がある時は必ず見に行った。彼は「神のタクト」と呼ばれる、まるで指揮者のような戦術を華麗に操っていて、音楽の才能がこんなところで生かされているんだと感動してしまった。
 ホーリーロードの決勝戦の前日には、彼のプレッシャーにならないように一通だけ、なるべく手短にまとめた応援のメールを送った。返事が来るまでにだいぶ時間が掛かったから心配したけれど、その文面には
「大丈夫だ」
 と、私がピアノの発表会で緊張していた時に彼が掛けてくれた言葉が書かれていて、私は思わず携帯を両手で胸に抱いた。大丈夫。彼らなら、拓人くんなら、決勝戦も勝てる。
 お願い、と両手を握り締めながら見ていた決勝戦は、あっという間の出来事だった気がする。惜しくも一点差で決勝戦は負けてしまったが、とてもいい試合だった。他の雷門中の選手も、悔しそうにしてはいるものの、その顔はやりきった、という達成感に満ち溢れていた。

 その後のことだ。拓人くんの様子がだんだんおかしくなっていったのは。
 サッカーの試合を見に行っても、あの無敵と謳われた雷門中は負け試合が続くようになり、それとともに拓人くんの表情も暗くなっていった。
 彼はサッカーが大好きだと言っていたのに、なぜ? 怪我をしたの? それとも、部員同士のいざこざとか? なかなか上達しないから? 最近、勝てないから?
 サッカーの知識が乏しい私には、分からなかった。

 そしてまた分からなかったのが、ここにきて拓人くんがまたピアノのレッスンに時々顔を出すようになったことだ。
 確かに、彼がピアノを弾く姿を長らく見ていなかったから、また来てくれるようになったのは嬉しかったけれど、今ではサッカーをする拓人くんも好きな私は、複雑な思いで彼がレッスンを受けるのを見ていた。彼のピアノは、衰えていなかった。
 拓人くんが選ぶ曲はいつも、どこかもの悲しさを感じさせる曲だった。彼がピアノを一心不乱に弾くその顔を見たら、サッカーはどうしたの、なんて聞けなくなってしまった。その姿が、その曲の切ない調べに余りにも似つかわしかったから。
 どうしたらいいのか、どうするべきなのか、私には何も分からなかった。

 春が来て、私たちは二年生になった。
 また拓人くんと同じクラスになれたことを喜ぶ暇もなく、サッカー部に事件が起こった。どうやら、雷門中サッカー部を快く思わない人がサッカー部をほぼ壊滅状態に陥れてしまったようなのだ。
 私はふいと視線を逸らす。拓人くんは体のそこらじゅうに傷を付けていて、見るからに落ち込んでいた。私はその痛々しい姿を見ていられなかった。
 ある日、拓人くんは学校を休んだ。
 今までそんなこと一度もなかったのに。彼は大丈夫なのだろうか。心配で身が引きちぎれそうだった。

 音楽の先生になりたい私は、部活に入らず毎日ピアノのレッスンに通っている。それは拓人くんが学校を休んだ今日だって変わらない。
 拓人くんの家の近くに来ると、誰かがピアノを弾く音が聞こえた。……聞き間違えようがない。あの美しくももの悲しい響きは、拓人くんの音だ。
私 は拓人くんの家の門の前で立ち止まって耳を澄ました。私もよく知っている曲。ふと旋律を口ずさむと、突然、不協和音が私の耳を鋭く刺した。
 拓人くんが鍵盤を叩いたのだ。
 昔の拓人くんには、ピアノが上手く弾けないと、今のように鍵盤を叩く癖があった。それを見た私が、ピアノが可哀想だよと言ったら、びっくりした顔をされたけど、拓人くんはそれ以来鍵盤を叩かなくなった。
 ……それなのに、彼は今、鍵盤を叩いた。
 本当に、どうしたんだろう。彼に何があったの。彼は今、どんな気持ちでいるの。
 私はその場に崩れ落ちた。涙が溢れる。
 私はこんなに彼を好きなのに、彼に何もしてあげられない。彼の気持ちを分かってあげたいのに、何一つ分かってあげられない。
 助けて、とどこかから声が聞こえた気がした。

 ねえお願い。誰か。誰か、彼を救ってあげてください。彼が、拓人くんがまた、笑顔になれるように。
 心から、サッカーとピアノを愛せるように。


初めの音を忘れてしまった


2011.7.26
2019.3.3 修正


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