左手に卒業証書のケースを、右手に大きな紙袋を持ちながら私は夕暮れの道を歩いている。
 春の匂いのする暖かい風がゆるく吹いて、私の一歩先を歩く風丸の綺麗な髪をさらさらと揺らす。それを見ながら、こうして二人で帰り道を歩くのもこれが最後なんだなあと思うと、どうしようもなく胸が苦しくなって、卒業式では泣かなかったのに、今さら目の奥がつんとした。
 私と風丸は、四月から別々の高校に通う。私はこれまでサッカー部のマネージャーをやってきて、運動する人のための食事のことや怪我の処置の仕方のことに興味が湧いたから、そういうことを学べる運動系の部活の強い私立高校(もちろんサッカー部も強くて、円堂もここに来るんだ)に、風丸はそこそこサッカー部の強い公立高校に行くことになっている。
 以前、円堂は私と同じ高校に来るのに、どうして風丸もこっちに来なかったの、と聞いたら、今度は円堂と戦ってみたいんだ、と意気込んでいて、その姿がすごく輝いていて頼もしかったのを覚えている。
 風丸と私は家が近いこともあって、いつも学校から一緒に帰っていた。それは風丸がサッカー部に来てからはもちろん、彼が陸上部だった頃から、いや、もっと昔からのことだ。ただ、私たちの事情も年を重ねるごとに少しずつ変わってきて、繋いでいた手を繋がなくなったり、歩調が合わなくなって風丸が私の一歩先を歩くようになったりした。
 それでも私は、風丸が「一緒に帰ろう」と言ってくれるのが嬉しかったのだ。いつか風丸の隣を歩くのが私じゃなくなっても、風丸が幸せならそれでいいと、いつも風丸の背中を文字通り一歩後ろで見つめながら思うようになっていた。

 でも、なんで、なんで想いを伝えるぐらいのことをしなかったんだろう。ふと頭をよぎった考えに、視界が滲んだ。伝えるチャンスなんて今までにいくらでもあったのに。
 あともう少し、もう少しでいつも風丸と別れる大きな木の下に着いてしまう。こんな短い距離で、どう伝えようかなんて思いつくはずがないし、心の準備もできるはずもない。きっとあの木の下に着いたら、私は手を振って、いつも通り「じゃあね」って言ってしまうだけなんだろう。
 今さらだ。今さらすぎる。いつも通り風丸と別れるだけなのに、それがこんなに辛くなるなんて、誰が予想しただろう? 私は少なからず知っていた筈だけど、知らないフリをしていたんだ。“風丸を好きだ”なんて思わなければ、誰にも知られることなく、永遠に心の中にこの気持ちを押し殺してしまえるから。
 ついさっきまでは、それでいいと思っていた。だけど、今はそう思えない。後悔の念が、私を責め呵む。
 私は、風丸のことが好き。いつか風丸の一番になれるんだと、ずっとずっと心の奥では期待していた。今まで抑えてきた感情が渦巻き溢れそうになって、慌てて目元を拭う。こんなところ、風丸に見せられない。
 結局、何もできずに例の木の下に着いてしまった。今まで生きてきて初めて、どうしてこんなところにあるんだとこの木を恨んだ。とんでもない責任転嫁だ。私は自分を笑う。
 風丸がくるりと振り向いた。ああ、振り向きざまにちらりと見えた左目に、諦めと後悔と甘い痛みが私を襲う。私は左手を持ち上げ、「じゃあね」と別れの言葉を口にするべく息を吸った。吸った分、感情の波を吐き出してしまわないように、こんなに意識して息を吸ったことなんか今までにない。





「あ、あのさ」
 じゃあね、と口にしようとした瞬間、風丸が口を開いた。その目線は定まることなく宙を彷徨い、風丸は困惑しているようだった。
「どうしたの」
 普通の声で喋ることすらできなかった。あまりにも情けない消え入りそうな声で、泣きそうなのがばれたかと思ったけれど、どこかそわそわして落ち着かない風丸を見る限り、気付いてはいないようだ。
「よ、良かったら……」
 躊躇いがちな、風丸の口調。夕暮れに照らされたような、風丸の赤い頬。
 まさか。いや、そんなこと、あるはずない。
 続く風丸の言葉に、それこそ私は自分の耳を疑った。
「……四月からも、その……俺と一緒に、帰ってくれないか……?」
 いつから風丸はこんな顔をするようになったんだろう。まるでプロポーズする時みたいに真剣で、男の子らしい顔。でも私は、この顔をよく知っているような気がした。
「……っ!」
 それがサッカーをしている時の風丸の顔だと気付いた時、私は堪えきれずにぼろっと涙を落とした。風丸は驚いただろうか。驚くよね。だって風丸はこれっぽっちも悪いことは言ってないのに、急に泣き出すんだから。
 おずおずと私の頭を撫でてくれる、私の記憶の中のそれより幾分か大きくなった手に、胸がきゅうと締め付けられるようであって、何か温かいものに包まれるようであった。

「……いいよ、帰ろう。だから、ずっと、ずっと私の隣にいてね!」

 私たちの足元には、一足早く春を告げる小さな花がたくさん咲いていた。





企画「卒業文集」さまに提出


2011.3.27 修正
2019.3.3 修正


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