生存設定





 髪を切った。そろそろ鬱陶しくなったから、切りたかったのだ。

 翌日学校に行くと、私はみんなに髪切ったんだね、と言われた。思い切ってばっさりやったから、むしろ気付かない方がどうかしているかもしれない。みんなできゃいきゃいやっている時、彼が私の横を通り過ぎた。
「おはよう、アツヤ」
「おう、名前」
 アツヤは軽く手を挙げ私に挨拶を返す。しかし、彼に限ってそれだけなのだ。
 私は窓際の席に着く彼を見つめた。椅子に浅く掛け背もたれに寄りかかり、頭の後ろで手を組んでどこかを眺めている。私が未だに見つめていることに気が付いたのだろうか、彼は私をちらりと見てまた視線を外した。それでもまだ私が見つめていると、彼は男子たちに声をかけて教室を出て行ってしまった。
 ああまた何も言われなかったな、とため息をつくと紺子が声をかけてきた。
「名前ちゃん、アツヤくんに気付かれたかったのね」
 紺子は私の理解者だ。紺子の優しい口調に涙が出そうになる。
「たぶん気付いてるとは思うんだけど」
 短くなった横髪をいじりながら私は呟いた。クラスのみんなが私の変化に気付いていろいろ言ってきても、アツヤだけは何も言わないのだ。
「まあいいや。いつものことだし」
 私が諦めと笑いを含めて言うと、紺子も
「そうかもね」
 と言って笑った。
「名前、あなた今日日直よ」
 珠香が私に当番日誌を手渡して言う。朝からいろいろあって、すっかり忘れていた。


 日直の仕事は非常に面倒くさい。なぜ放課後に一人居残りをさせられなければならないのか。毎回毎回思うことだけど、愚痴を吐かずにはやっていられない。
「もう、先生……二人で分担させるとかさ、やってくんないのかな」
 ようやっと日誌を書き終わった頃には日が暮れ始めていた。次は窓を閉めなきゃ、と思い視線を上げると、そこには普段この時間帯にはここにいるはずのない彼の姿があった。
「……アツヤ?」
 私が問いかけても彼はなにも言わず黙々と教室の窓を閉めていく。彼にやらせてばかりではまずい、と慌てて私も窓を閉めていく。
「珍しいね、アツヤがこんな時間に教室にいるなんて」
 窓を閉めながら私が零した言葉にアツヤの動きは固まった。
「あ、ああ……部活が早く終わったから来てみたんだ」
 私はふうん、と軽く相槌を打った。ふとアツヤが閉めかけた窓から風が吹き込んでくる。初秋の香りを含んだ夕方の風は、しっとりとした空気を教室に漂わせる。アツヤと私の髪が風に揺れ、私は右手で髪を押さえた。
「そういえばお前……髪切ったんだな」
 アツヤの言葉に私ははっとして彼を見上げた。アツヤは決まりが悪いのか、視線をどこか明後日の方向に向けている。
「気付いて……たんだ」
 アツヤが気付いていたことに驚き、私はちょっと泣きそうになって下を向く。
「そりゃあそれだけ切りゃ俺でも分かるって」
 そう言うとアツヤは私の髪の毛に触れ、二、三度梳いた。その手つきがくすぐったくて私はくすくすと笑い声を上げた。
「ねえ、似合ってるかな」
 いたずらっぽくアツヤに尋ねると、アツヤはがばっと私をその腕の中に収めて言った。
「すげー似合ってる。前より可愛い」
 私はアツヤの突然の行動とその言動に戸惑ってしまい、少しの間身動きがとれなかった。
「……前にも何回か、アツヤに気付いて欲しくて切ったことがあるんだけど」
 やっとの思いで私がゆっくり話し出すと、アツヤは驚いた顔をした。
「そう、なのか」
 ああこれは、やっぱりアツヤは気付いていなかったんだと安心したようなちょっと悲しいような気持ちになった。
「あ、のさ」
 暫くの沈黙の後、アツヤが気まずそうに口を開いた。
「待って」
 アツヤが次の言葉を口にする前に、私は制止の言葉を発した。
「もしかして、謝ろうとした?」
 私の問いにアツヤはこくりと頷いた。
「いいよ、そんなことしなくて。アツヤらしくないから。……っていうか、あのね、」
 続けようとした言葉に急に恥ずかしさが増して、最後の方の声が小さくなってしまう。
 そういえば私、まだアツヤに抱きしめられたままだ。ああ、気にしてなかったのに。意識してしまったら、途端に恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。
「あ、のね……、アツヤに、気付かなかったこと謝られるよりも、似合うって言われた方が、ずっとずっと嬉しいんだから」
 私の言葉にアツヤは私の髪を梳きながら一度だけ頷いた。
「名前……」
 アツヤはやっと私をその腕から解放すると私の両肩に手を置き、私の目を見て何度か口を開いては閉じ、開いては閉じ、を繰り返した。やがてアツヤは決心したように一度口を真一文字に結ぶと、一気に言った。
「すきだ、名前」
 今まで髪を切っても何も言ってくれなかったのに、今ここでこんなこと言うなんて。アツヤはずるい。だから今度は私から彼の胸に飛び込んで言ってやった。
「私も好きだよ、アツヤ」


幸せの欠片は足元に落ちていた


2011.3.27 修正
2019.3.3 修正


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