生存設定





 夕日が眩しい午後六時。長ったらしい講義と、なかなか疲れるサークル活動を終えて、私はスーパーに食料の買出しに来ている。クーラーで鮮度を保たれた野菜を手に取って、はたと気が付いた。
「そういえば……二人分要るんだっけ」
 そう。今日は、アツヤが私の家に遊びに来る日。最近は私もアツヤも予定が合わなくて、電話すらまともにできなかったのだけれど、アツヤが今日は暇だというので、急遽そういうことになった。
 久しぶりに話ができる。会えるんだ、アツヤに。
 そう思うと、唇が自然に上向きの弧を描いた。
 ……よし。私は買い物カゴの取っ手を握り直す。アツヤってたくさん食べるんだよね。いっぱい買ってかなきゃ。そう気合を入れて品物をどんどんカゴの中に入れていくと、気付いたときには相当な量の食料を購入していた。両手に提げた袋がずしりと重たい。
「早く免許取らなきゃなあ……」
 スーパーから私のアパートまではそんなに距離は無いと言っても、疲れている上にこの荷物だと、数分の道のりもとても長く感じた。

 なんとか頑張って部屋のドアの前に着いた時、私はもうへとへとだった。
 でも、もうじきアツヤに会えるんだから。
 私は荷物を持ち直して、ドアの鍵を開ける。すると何故かドアがひとりでに開いて、不意を突かれた私は、開いてきたドアを避けることができず、おでこをしたたかにぶつけてしまった。ごつん、と鈍い音が響く。そして、そのドアの影から彼が「よう」と顔を出した。
「いったあい」
 既にアツヤが来ていたことへの驚きよりも、おでこの痛みの方が勝った。でも、おでこがじんじんと痛くても、荷物を放り出さなかったことだけは褒めて欲しい。そして、そんな情けない声を上げた私を見て、アツヤは笑っていた。
「なんでこれくらい避けれねえんだよ」
 これが久しぶりに会った彼女に一番最初に掛ける言葉だとは到底思えない。私はムキになって返す。
「まさか先にアツヤ来てるなんて思ってないし。ましてドアが勝手に開くなんて思いも寄りません」
 すると、アツヤは心外だ、とでも言いたげに続けた。
「お前が疲れてるだろうと思ってせっかく開けてやったのによ」
「あんまり嬉しくない」
 どうしてこう、もっと素直に言わないのかな。私は頬を膨らませて横を向く。
 まあそう言うなって、アツヤはそう言って部屋の奥に入っていった。いつの間にか両手が軽い。はっとしてアツヤを見ると、「おっ、いっぱい買ってきてあんじゃん」と、私から取って行った買い物袋の中を嬉しそうに覗いていた。
「……素直じゃないっ」
 私は慌ててアツヤの後ろを追いかける。
 素直じゃないなんて、そんなの、私もそうだって分かっちゃいるけど、口に出さずにはいられなかった。

「んで、今日は何作んの」
「へ、」
 唐突にアツヤに言われたから、私は言葉に詰まってしまった。いろいろたくさん買ったはいいけど、肝心のメニューを全く考えてなかった。
「米ならもう炊けてるけど」
 アツヤは親指で炊飯器を指差す。本当だ、ご飯の炊けた良い匂いがする。
 どうしよう、鮭のムニエル? それとも、煮込みハンバーグとか? 一人頭の中でぐるぐると考えていると、アツヤが突然「よし」と言った。
「俺が飯作ってやっから、お前はあっちで休んでな」
「え、そんな、来てもらったのにご飯まで作らせたら悪いじゃん……」
 そうだ、だって忙しいところの合間を見て来てくれてるんだから。私が、アツヤにご飯を作ってあげなきゃ。だけど、私が作るよ、そう言うよりも先にアツヤが口を開いた。
「バーカ」
「な……!?」
 彼氏のことを考えて、ご飯を作ると言っている彼女に向かって、「バカ」ですって!? ああ、なんという狼藉。私の手料理を食べたくないのか、お前は。
 私が憤慨しているのを余所に、アツヤは長いため息を一つ吐いてから言った。
「お前、疲れてんだから。そんな状態で飯作って失敗されても困るし」
 私ははっとした。悔しいけど、確かにそれは正論だ。でもやっぱり、最後の一言は余計な気がする。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
 これって、普通は男が女に言う言葉じゃないのか。
「任せとけって」
 でも、そう言った時のアツヤの笑顔にひどく魅せられてしまって、私は俯いて奥の部屋に行くしかなかった。

 周りでごそごそと何かが動いた気がして、私は薄く目を開いた。いつの間にかベッドで寝てしまっていたようだ。
 見慣れた桃色が視界に広がっている。だんだんと輪郭がはっきり見えてきて――
 赤みがかったアツヤの顔が目の前にあるので、私はびっくりしてしまった。動こうにも、どうやらアツヤの腕にしっかりと抱きしめられているようで、身動きがとれない。ただただ、目を見開いてアツヤを見つめるばかりだ。
「なんでこのタイミングで目え覚ますんだよ……」
 心残りのありそうな視線と、低い声で呟かれる言葉。
 アツヤのこんな表情、いつ振りに見ただろう。いや、こんな顔もするんだなあって、こんな至近距離で見て、初めて知ったかもしれない。まさに、キスができそうな近さ、というやつ。
 部屋には良い匂いが満ちているから、もう夕飯は出来上がったんだろう。もしかして、「夕飯できたぜ」って、起こそうとしてくれたのかな。
 でも、あれ、ちょっと待って、キスされる前に私が起きちゃったら、意味ないんだよね?
「もっと静かにやらないと、起きちゃうよ」
 私は笑って、また軽く目を閉じる。
 ちょっと恥ずかしいけど、ここまでアツヤにやってもらったんだ。せっかくだもの、最後までちゃんとやってもらわないと。
 またため息が聞こえて、少ししてから唇に触れた柔らかい感触に、ああ、幸せだなあって。そこからじんわりと広がっていくようだった。


メルトアウェイ


2012.5.23
2019.3.3 修正


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