生存設定





 卒業式後の最後のホームルームが終わった後、友達と連絡先を交換し合うのもそこそこに、私はとある人の影を追って昇降口に出た。大きな声で笑い合い、別れを惜しみ、時々すすり泣きの声も混じる、そんな多くの人々でごった返している昇降口では、優しい風が春の匂いを引き連れて、辺りに温かで切ない気持ちを振り撒いている。
 この騒がしい人混みの中で、私は一抹の不安に駆られる。まさか、もう帰っちゃったなんて、そんなことはないだろう。あの人が居るとしたら、そこは……。
 何とか人混みを掻き分けて前に進み、私はグラウンド脇の部室棟に向かう。サッカー部の部室の前まで来ると、ポン、ポン、と小気味良い音をさせてボールを蹴っている一人の男子の姿が見えた。良かった。やっぱりここに居た。私はほっと胸を撫で下ろす。
「クラス会とか行かないの?」
 リフティングを始めた彼に声を掛けると、彼は黙ったままボールを蹴り続け、暫くして、当たり所が悪かったのか落としてしまったボールを拾ってから言った。
「気が向いたら行く」
 彼の藍鼠の瞳と目が合った。そしてまた優しい風が吹いて、桃色の髪を揺らす。
 彼――アツヤの髪の毛がこんなに綺麗だったなんて、初めて知ったような気がする。だって、サッカー部の練習の時は、ずっとグラウンドを走り回ってて、ぐちゃぐちゃになってるから。今日は、士郎に整えてもらったのかな。
 アツヤはまたリフティングを始めていた。暫く蹴ってから、思い出したように私に聞いた。
「……お前は?」
「わ、私?」
 アツヤにそのことを聞かれるとは思っていなかったから、答えを用意していなかった。私は相応しい言葉を探した。
「私は……ここに居る方がいいかなあ」
「ふうん」
 そう興味もなさそうに頷いて、アツヤはボールを蹴り続ける。私は、アツヤに気付かれないような小さい溜め息を一つ吐いた。
 まさか、ここでアツヤを見ていたいだなんて、ストレートに言える筈がない。
 アツヤは飽きもせずひたすらリフティングをし続ける。あれきり言葉も交わさないけれど、私にはこの沈黙は何となく心地良く感じられた。

 思えばまだ部活をやっていた頃、アツヤは練習が終わっても一人でずっとボールを蹴ったり、走り込んだりしていたっけ。時には士郎や烈斗たちがそれに混ざったりすることもあったし、私と珠香と紺子はそれを見て、もう下校時間だからと怒ったりすることもあった。
 部室の中を覗くと、数々の賞状やトロフィーが飾ってあるのが見えた。どれもこれも、白恋中サッカー部のみんなで頑張って手にしたものばかりだ。
 ……楽しかった。
 突然、そんな思いが私の頭を過ぎった。
 ここでみんなと過ごした日々は、本当に楽しかった。だから、中学校を卒業して、みんな別々のところへ行ってしまうのが寂しかった。いつかまたここに来ることはできても、もうあの日々は帰ってこない。私たちが居た白恋中サッカー部は、今ここにしかなかったんだ。
 またやって来た優しい風に唆されて、私は泣き出しそうになってしまった。
 ……こんなとこじゃ、泣けない。
 私はぐっと涙を抑え、大きな声でアツヤを呼んだ。
「アツヤ!」
「なんだよ」
 私に呼ばれたアツヤは、リフティングをしたまま器用に私の方を振り向いた。
「私もサッカーやる!」
「はあ!?」
 アツヤはボールを取り落とした。本日二回目。どうやらかなり驚かせてしまったらしい。
「え、だって、お前……スカート……」
「スパッツ穿いてるから大丈夫!」
 勢いで言ってしまったから、何が大丈夫なのか私にもよく分からないけど、私がアツヤの正面に立つと、アツヤも踏ん切りがついたようだ。
「や、やる気だな……」
「もちろん」
「……なら、女だからって手加減しねえからな!」
 アツヤのボール捌きは思った以上のものだった。端から見ていれば取れなさそうなことはないのに。実際に取ろうとしてみると、それはそうだ、ただのマネージャーだった私が、アツヤからボールを奪える筈がない。悔しいけれど、私の息ばかりがどんどん上がっていく。
「ねえ、アツヤ!」
 そんな中でもアツヤと話がしたくて、私は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「なんだ?」
「高校行っても、サッカー、続けるよね?」
「もちろん」
 アツヤは頷く。
「じゃ、良かった! 私もさ、またマネやるから、きっと、何処かで会えるね!」
「そうだな」
 アツヤがボールを跳ね上げた。それを追い掛けながら、私は続ける。
「時々は、連絡、ちょうだいね」
「……ああ」
 いつの間にか騒がしかった昇降口は人影も疎らになり、傾いてきた日がグラウンドでボールを取り合う私たちの姿を強く照らし出していた。
「私、白恋中サッカー部に居られて、本当に良かった!」
「…………俺も」
 今だ、とアツヤの後ろに回り込んでボールを蹴った時、アツヤからそんな返事が返ってきた。
 勢い良くボールを蹴ったはいいけれど、それを止めに行ける人は誰も居なくて、ボールは数回跳ねてコロコロと転がり、ゴールポストの近くで止まった。
「……アツヤ、」
 アツヤの背中が驚くほどすぐ近くにあった。私は思わずアツヤの学ランをちょっと掴んで、その背中に顔を埋める。

 卒業したくなかった。ずっとここに居て、ずっとみんなで笑い合っていたかった。
 思わず嗚咽が漏れる。アツヤの前でだけは泣きたくなかったのに、アツヤの後ろにいるからか(そんな下らない洒落で)、涙が溢れてきて止まらない。
 別に、もう一生会えないという訳じゃない。だけど、今までずっと一緒に居た人たちがいなくなるというだけで、寂しくてしょうがない。頻繁にはアツヤに会えなくなってしまうのが、いちばん寂しいかもしれない、と私は思った。
「……後悔はしてねえ」
 泣き続ける私に痺れを切らしたのか、アツヤは私の方に体重を掛けながら言った。
「…………」
「そりゃ、サッカー部のみんなとか、お前とかと、もっと一緒に居られりゃ良かったけど……」
 私ははっと顔を上げる。いつの間にかこちらを向いていた、さっきとはまた違う藍鼠の瞳と視線が触れ合った。
 帰ろうぜ、とアツヤが私の手を引く。変わらない笑顔。知らなかった、こんなにしっかりした手、意外と大きかった背中、切なげに揺れる瞳。
 だから私は、言おうとした言葉をぐっと飲み込んだ。優しい風が私の涙を攫って散らしていく。私は笑ってアツヤの手を握り返した。


君の背中は優しすぎるよ





企画「卒業文集」さまに提出


2012.3.9
2019.3.3 修正


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