生存設定





 委員会の仕事で中庭の花壇に水遣りをしていると、校舎側の廊下から、数人の男子が盛んに何かを囃し立てているのが聞こえた。その内容から察すると、どうやらおめでたいことに、一つのカップルが誕生したらしい。
 へえ、誰と誰だろう?
 カップルが誕生した、と聞けば当然誰もが気になるであろうこと。私は単純な興味と関心で、丁度中庭の横を通りかかった彼らの中に取り囲まれている二人を見た。
「……は……?」
 見覚えのある桃色の髪の毛と白いマフラーが見えた瞬間、私は水遣りのホースを派手に地面に取り落とした。まるで冷たい手に心臓をぎゅっと鷲掴みにされたようだ。嫌な汗が背中を伝う。重苦しい動悸が止まらない。
 嘘だ。信じたくない。信じられない、アツヤが、アツヤが……、誰かと付き合うなんて。
 当の本人たちは、私が中庭にいることになんか気付いていなかった。私も、水が出しっぱなしで、靴が濡れてしまっていることになんか気付かなかった。

 翌日、私は泣き腫らした目で学校に行った。私の前の席の珠香ちゃんは私の登校を待っていたようで、私が席に着くなり話し掛けてきた。
「……その様子だと、知ってるみたいね」
「知ってるも何も」
 アツヤにこの会話を聞かれてしまうのはあまり宜しくない。私は現場にいたんだ、彼はこのクラスにいるから声を潜めてそう主張すると、珠香ちゃんはため息をついた。
「私、アツヤが誰かとできたっていうから、てっきりあなたが告白したかと思ったのに」
「うう……そんなこと言わないでよお……」
 所詮私の片思いは只の片思いだったのだ。俯いたらまた泣き出しそうになってしまって、そんな私の頭を、珠香ちゃんは優しく撫でてくれた。
「よしよし、泣かない泣かない。また辛くなったら言ってよ」
「ありがとう……」
 私は両手で目をごしごしと擦って珠香ちゃんに微笑んだ。ひどく情けない笑顔なんだろうなって、そんなの私が一番分かってる。
 予鈴が鳴った。アツヤができた騒動の所為か(いつだって吹雪兄弟はみんなの話題の中心なのだ。アツヤも、もちろんお兄さんの士郎くんだって)、一段と煩かった教室がだんだんと静かになる。
「ねえ、あなた本当にその告白現場にいたの? ……私、アツヤがあの子のことが本当に好きだなんて、信じられないわ」
 珠香ちゃんが最後に小さく小さく呟いた言葉の意味がよく分からなくて考え込んでいるうちに授業が始まってしまって、私は慌てて教科書を取り出した。

 アツヤと付き合い始めたという女の子は、私も知っている子だった。名前を挙げられれば、ああ、あの子か、と頷くことはできる。要するにそこそこ可愛い子なのだ。
 彼女がアツヤを好きだということは、私も風の噂で知っていた(他にも何人か、噂で聞いてアツヤのことを好きだという子を知っている。だから、私がアツヤを好きだということもきっと、誰かの耳には入っているのだろう)。でも、まさかあの子が先に告白してしまうなんて、思いもしなかった。
「(先手必勝、か――)」
 私は移動教室のために教科書類をとんとんと揃えながら考えた。私も、いつまでもうじうじしてないで、早くアツヤに「好きです」って言ってしまえば良かったのかなあ。
 でも、ね。
 私はふう、と息を吐く。
 私はアツヤと付き合うよりも、あの居心地の良い距離でいる方が好きなんだ。
 給食のデザートを取られて喧嘩したり、数学の問題の分からないところを教えてあげたり、苦しい時に支えてもらったり、ちょっとした下らない会話で笑い合ったり。
 決して近くも遠くもないあの距離感、気の置けないあの関係が好きだったんだ。もちろん、アツヤと付き合うことになった誰かのことを羨ましいと思ってしまえば、そんなことは只の綺麗事でしかないのだけれど。
 はあ、ともう一度ため息を吐いて、私は立ち上がった。丁度、珠香ちゃんが一緒に行こうと誘ってくれる。

 珠香ちゃんと一緒に廊下を歩いていると、ふと曲がり角の辺りが騒がしいことに気が付いた。珠香ちゃんにも聞こえたらしく、彼女は眉を顰めている。
「早く行こう」
「うん」
 私たちは足早にそこを通り抜けようとする。しかし、目敏い男子が私を見付けて名前を呼ぶので、思わず足を止めてしまった。
「……何、」
「お前も知ってるよな、アツヤとコイツが付き合ってること」
 顔に出てしまっただろうか。何とか声は押し殺したものの、また嫌な動悸が私を襲う。
 背後で珠香ちゃんが表情を強張らせたのが分かった。コイツはきっと、私がアツヤのことを好きだと分かっていて、それで敢えて私を呼び止めたのだ。
 馬鹿。こんなところで、こんな顔で、こんなアツヤになんか、会いたくなかったのに。
「……幸せそうで何より」
 今すぐにでも泣き出したいのを必死で堪えて、アツヤの目をしっかり捉えて皮肉たっぷりに言ってやる。そしてすぐに、熱くなった目元を押さえてその場から走り去る。珠香ちゃんが慌てて私の名前を呼んだ。
 誰にも追いつかれないように全速力で走りながら、私は先ほど見たアツヤの顔を思い出していた。昨日も見た筈の顔なのに、何故かその顔を久しく見ていなかった気がした。
 そして、アツヤの目がどこか助けを求めていたように見えたなんて、いつの間に私の目は悪くなってしまったんだろう。

 裏庭の大きな木の根元まで走って来て、私はどさりとそこに座り込んで泣きに泣いた。昨日も夜通し泣いたのに、アツヤが誰かと付き合い始めたのは事実なのに、どんなに泣いたってその事実はひっくり返せやしないのに。ここが校舎から離れていることだけが幸いだった。声を上げて泣いても、誰にも聞こえないだろうから。
 アツヤに好きだと言ってしまった。さっきの私の言動は、誰がどう考えてもそう解釈せざるを得ない。馬鹿だなあ、私。これじゃあ只の負け惜しみだ。もっと冷静な反応だって、出来なかった訳じゃないのに。
 今なら分かる。あの時珠香ちゃんが「アツヤとあの子が付き合うなんて信じられない」と言った訳が。それは、あるところで珠香ちゃんが、どうやらアツヤも私を好きらしいという噂を聞いていたから。
 何となく、そうかもしれないという実感も無きにしも非ずだった。だから、私はその噂に甘んじていた。お互いこれ以上近付かなくても、このままでいいと思っていた。
 私って本当に馬鹿だ。どんなに悔やんだって、もう遅いのに。アツヤが誰かと付き合い始めた途端に、こんなに羨ましくなっちゃうなんて、思いもしなかった。さっき、アツヤの目が助けを求めているように見えたのは、実は全然そんなんじゃなくて、私に呆れていたのかもしれない。今さら何だよ、お前なんか眼中にねえよって。
 ああ、だからあの子に取られちゃったんだ。アツヤの目の色も正確に読み取れないなんて。
 でもね、好きなの。好きなんだ、アツヤのことが。今さら泣いたってどうにもならないことなんか分かってる。感情が後から後から、滾々と溢れてくる。私はそれを止める術を知らないから、その感情はただ垂れ流しになっていた。
 だからお願い、今は泣けるだけ泣かせて。私はもう、堪えるのを止めた。

 突然、土を踏む音と、ぜえぜえと荒い息の音が聞こえて、私ははっと顔を上げた。
「こ、こに……居た……」
 私の横で膝に手を当てて必死で息を整えているのは、今、私が一番会いたくなかった男だ。
「こんなところまで追い掛けてきたの?」
 私はキッとアツヤを睨む。
「ああ」
 サッカー部の足を嘗めるなよ、とアツヤは言う。
「何しに来たの?」
 私の泣き顔を見るためとか? 諦めがつくと恐ろしいもので、普段言わないような棘のある言葉さえ言えてしまう。私の言葉を受け止めたアツヤは、予想外にもはああ、と大きくため息を吐いた。
「勘違いばっかじゃたまんねえな」
「は? どういう……」
「いいか、よく聞け」
 私の頭に手を載せ、くしゃくしゃにかき回しながらアツヤは言った。
「お前、俺がアイツに告られて、それで付き合い始めたと思ってるんだろ」
 私は頷く。
「そうじゃないの?」
「途中まではな」
 そう言われたばかりの頭では、アツヤが言っていることを上手く理解できない。ぽかんとした顔でアツヤを見つめていると、アツヤは焦れったそうにがしがしと頭を掻いた。
「確かにアイツに告られはしたけど、付き合ってはいねえ」
 私は耳を疑った。アツヤ、今、付き合ってないって?
「だ、だって、男子たちが言ってたじゃない」
「あー、だから、それなんだ」
 続くアツヤの話によると、あの女の子の告白現場を、たまたま通りかかった男子たちが見かけて、アツヤが返事をする前にカップルが誕生した、と銘打ってしまっただけのことのようだ。
「な、なんですぐ撤回しなかったの」
「しょうがねえだろ、アイツ、嬉しそうにしてたんだから」
 私ははっとした。そして何故か、微笑ましいような、温かい気持ちに包まれるのだった。
「その子……」
 アツヤには私が聞きたいことが分かったようだった。
「さっきあの場にいたヤツらにはもう説明してきた。アイツも気まずそうだったし、俺だってあんまり気分のいいもんじゃなかったし……」
 アイツが、お前に謝っといてくれって。アツヤがそう付け加えたから、私は驚いて顔を上げた。あの子も、知ってたんだ、私のこと……。

 なんだか、拍子抜けしてしまった。
「……悪かった」
 アツヤは素直に謝った。
「な、なんで謝るの」
「だって、お前がこんな顔してんの、俺の所為なんだろ?」
 アツヤは懐かしささえ感じさせる顔でにやりと笑い、さっき私がしたように私の目を真っ直ぐ捉えた。私の好きな、強くて優しい瞳が、私の意識を捕まえて離さない。そして、アツヤはゆっくりと、口を開く。
「あのさ、俺……」





 その時、キーンコーンカーンコーン、と高らかに始業を知らせるチャイムが鳴った。私たちは二人してびくりと肩を震わせる。
「やばっ、授業始まっちゃった……!」
 言葉では焦っているものの、私たちはその場から一歩も動こうとしなかった。
「まあ、今から走っても間に合わねえし」
「……そうだね」
 アツヤが笑うのを見て、私もふふ、と笑ってしまった。さっきまで大泣きしていたのが、まるで嘘のようだ。好きな人と一緒にいるって、こういうことなんだろうね。
「お、寝るのか?」
 うん、ちょっと、泣き疲れちゃったかな。……そうか、じゃ、俺も寝るかな。
 アツヤがそう言ったのは本当のことだったのか。突然眠気が襲ってきてしまったから、それは定かなのか分からない。でも、私が夢の世界に落ちる前に感じた温もりは、きっと、嘘なんかじゃないんだろう。





image song:ハッピーシンセサイザ/EasyPop
企画「無限ループ」さまに提出


2011.8.28
2014.9.23 修正
2019.3.3 修正


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