アオイはバレンタインデーを数日後に控えた周囲の雰囲気に戸惑っていた。アカデミーですれ違う人がみな口々にバレンタインのことを話しているからだ。誰にあげるあげないだとか、今年はいくつもらえるかだとか、そういうことばかり耳にしていると、自分も何かしないといけないような気持ちになってしまう。そんな雰囲気から逃れようと立ち寄った購買部にまでお菓子作りの道具と材料やラッピング用品が置かれているコーナーがあって驚く。逃げ場はないのか。
 それでも何故か目が離せなくて、購買部のその一角を食い入るように見つめていると、「お、アオイ」と夜食を買いに来たボタンに声を掛けられた。
「そんな深刻そうな顔してどしたん?」
 そう訊かれて、アオイは思わず自分の顔を触った。そんなに表情に出てたのか。これは深刻な問題に違いないけれど。
「ほら、これ」
 アオイは先ほどから見ていた購買部のバレンタインコーナーがボタンに見えるように少し脇に退く。
「ふーん、ペパーにあげるん?」
「えっ!?」
 ボタンは何の気なしに訊いたようだったけれど、ボタンの口からその名前がはっきりと出たから驚いてつい素っ頓狂な声が出てしまった。
「べ、別にそういうわけじゃ……」
「じゃあなんでそんな真剣に悩んでるん?」
 お菓子作るの失敗したらどうしようとか悩んでるんかと思った、あげないんならそれで話は終わりじゃん? というボタンの容赦ない言葉の数々にアオイは返す言葉に詰まって思わず俯いてしまう。
 そりゃペパーにあげたいに決まってる。いつもサンドウィッチを作ってもらってばかりだから。確かにお菓子作りが上手くいくかどうかも心配だけど、ペパーにバレンタインのプレゼントを渡すのをためらわせている重大な気がかりは、もっと根本的なところにあった。
「なんか、私があげてもいいのかな、って思って」
 いくら恋愛沙汰に疎いアオイでも、バレンタインデーがどういう日なのかくらいは知っている。ペパーのことはこれ以上なく大切だ。ペパーと一緒にいると、それだけで心が弾んで楽しい気持ちになるし、ずっと一緒にいたいと思う。だけど、これが「好き」という気持ちなのかどうかが分からない。
「それこそいつものお礼って体で渡せばいいじゃん」
 ボタンはアオイが悩んでいる間に夜食の会計を済ませていた。思ったことをそのまま口に出してしまう癖があるボタンでも、そりゃペパーはアオイからもらえたら嬉しいでしょ、とか、ペパーもバレンタインの意味とかそんな考えてないでしょ、とか野暮な(そして少し失礼でもある)ことは言わなかった。アオイ自身が悩んで悩んで悩み抜いた上でペパーに渡した方がいいものが見れそうだと思ったから。変な口出しをしたのではないかと咎められたり、自分が厄介事に巻き込まれたりするのは面倒だというのもあるけれど。
「じゃ、がんばって」
「ボ、ボタン〜……」
 アオイも、ボタンにそう応援されたらペパーに渡さないわけにいかなくなってしまった。

 バレンタインデーの前日、アオイは台所を粉まみれにしながら何とかお菓子を作り上げた。隠し味に粉末状にしたひでん:しおスパイスをほんの少しだけ加えたガトーショコラ。材料もラッピングの箱とリボンも、購買部で買うのは気が引けたからわざわざハッコウシティのアルデネーノまで買いに出掛けた。味見用に余分に作ったものを食べてみると、我ながら悪くない味だったからひとまず安心した。形を崩さないようにそっと箱に入れると、その箱を荒く砕いたとけないこおりを敷き詰めたもう一回り大きい箱の中に入れて蓋をして、光を受けるときらきらと輝く装飾が施されたリボンを巻く。
 できた、と改めて箱を眺めると、思ったより大層な見た目になっていて、これを渡すのか、と自分で作っておきながら気持ちがひるんでしまった。
 どうしてペパーにプレゼントを渡すことにこんなに悩んでいるんだろう。
 それはやはり、自分がペパーのことを「好き」なのかどうか分からないからだった。
 今日ではいろいろな様式があるようだけれど、バレンタインデーというのはやはり、基本的には恋愛的な感情を相手に伝えるものであるとアオイは思う。だから、自分の気持ちが分からないのにプレゼントを渡すことに抵抗があった。渡すところを誰かに見られて、意図しない方向に囃し立てられるのも困る。
 でも、一番嫌なのは、あまりの照れ隠しでペパーに悪態をついてしまいかねないことや、ペパーに不快感や嫌悪感を持たれることだ。それくらいだったらいっそ割り切って、バレンタインとか関係なしに渡せばいい。せっかく作ったんだし、味も分かっているものを結局渡せずに自分で食べるなんて虚しいことはしたくない。そもそも、最初にどうしてペパーにあげたいと思ったのかといえば、いつもおいしいものを作ってもらっているお返しをしたいからだった。
 そうだ、いつものお礼と言って渡せばいい。そう、それだけのことだ。

 そんなアオイの決心を試すかのように、翌日は苦難の連続だった。
 学年も専攻も違う人と待ち合わせの約束もなしにこの広いアカデミーのどこかですれ違えればいいなんて考えは、今日のアカデミーに漂うこの浮ついた空気のように甘かった。
 お互いのホームルームへ行くか来てもらうかすれば手っ取り早いのだろうけれど、ペパーの教室に行って先輩たちが見ている中で渡すのも、こっちの教室に来てもらってクラスメイトたちの目がある中で渡すのも、どちらも気まずくて恥ずかしい。それでもどうにかタイミングを合わせられないものかと見計らっていると、軽快なチャイムと共に校内放送が入った。
「1−A アオイさん、お客様がお越しです。校長室に来てください。繰り返します……」
 お客様? 誰だろう? そんなことしてる場合じゃないのに、と憤りたくなったけれど、校長室に来ているとなれば待たせてはいけない。急いで校長室へ向かうと、そのお客様というのはオモダカだった。そしてこういう日に限ってポケモンリーグでチャンピオンとしての仕事を依頼される。いや、こんな日でもオモダカさんは忙しいのだから、私が泣き言を言ってはいけないのだけれど。
 アオイがポケモンリーグでの仕事を終え、テーブルシティ北西にある門まで戻ってきたときには、既にとっぷりと日が暮れてしまっていた。
 ペパーももう寮に帰ってしまっていることだろう。後悔先に立たず、こうなるくらいならどんなに恥ずかしくてもペパーの教室まで行ってみればよかった、と肩を落としてとぼとぼとアカデミーの大階段を登っていると、
「お、アオイじゃねえか」
 と、アオイの丸まった背筋をぴんと伸ばす声が届いた。アオイは三つ編みがふわっと舞い上がるくらいに勢いよく振り返る。その声の主は、マフィティフと共に食材の買い出しをしていたペパーだった。
「ペパー!」
 ペパーは大階段を一つ飛びにしながらアオイの近くまで走り寄ってくる。今日一日中探し続けていた所為か、その姿を見ただけで気持ちも心臓もいつも以上に大きく弾んだ。この機会を逃す手はない。アオイは背負っている鞄から急いで箱を取り出す。
「あの、これ……」
「なんだ?」
 それでもやっぱりどうにも気恥ずかしくて言い淀んだ瞬間、夕闇に潜んでいたのだろうか、一匹のヤミカラスが音もなく現れ、箱に巻いたリボンを掴んでプレゼントを持ち去ってしまった。
「ああっ!」
 どうしてこのタイミングで? 中身ぐちゃぐちゃになっちゃったらどうしよう! っていうかどうやって取り返したらいいんだろう? と泣き出したい気持ちで一瞬のうちに考えていると、
「バウ!」
 と吠えてマフィティフがヤミカラスを追いかけ始めた。ハッとしてアオイもマフィティフの後を追う。
「アオイ!」
「ごめん、ペパー! 後でマフィティフ返すから!」
「気をつけろよ!」
 ペパーの返答を聞くか聞かないかのうちに、アオイはミライドンをボールから出してマフィティフと共にテーブルシティを駆け抜けた。

 ヤミカラスから箱を取り返してアカデミーに戻る頃には、空には満天の星が輝いていた。それでもかなり早く帰ってこれたと思う。マフィティフがヤミカラスの行く先を見逃さず走り続けてくれたおかげだ。
 寮のペパーの部屋のドアをノックすると、ペパーは「よ、お疲れちゃんだったな」と迎えてくれた。
「マフィティフ返すね、ありがとう」
「おう、大活躍だっただろ」
「ほんと、頼りになったよ」
「ワフ!」
 アオイの言葉を聞いて、ペパーは嬉しそうにマフィティフの頭をわしわしと撫でる。それを見ながらふと、アオイは本来の目的を思い出した。ここならマフィティフ以外の視線はない。これ以上ない絶好の、そして最後のチャンスだ。
「あ、あの、これ……ペパーにあげたくて」
「いいのか?」
「うん、中身崩れちゃってないか心配なんだけど……」
 どれどれ、とペパーは箱に巻かれたリボンを解く。光を受けてきらめくタイプの装飾が、解かれる動きに合わせて部屋の照明できらきらと輝いている。もしかしてあのヤミカラスはこのきらきらに反応したのかな?
 ペパーが蓋を開けたのを一緒に覗き込むと、ガトーショコラはさすがに少し崩れてしまっていたけれど、大まかな形は保っていてほっとした。
「へえ、美味そうじゃん」
「いつもペパーにサンドウィッチ作ってもらってばっかりだから、たまには私からも、って思って」
「おう、ありがとな」
 そう言ってにかっと笑うペパーに、アオイの体は温かさでいっぱいになって、やっぱり渡してよかったな、ちゃんと渡せてよかったな、と心の底から安堵と嬉しさで満たされていく。
「こっちこそ、いつもありがとう!」
「そうだ、せっかくオレの部屋に来たんだし何か食ってけよ」
「えっ、いいの?」
 ここでまたご馳走になってしまっては、いつものお礼をした意味がないような気がしてしまうけれど、きっとペパーは私がどれだけ断っても作ってくれるだろうし、そもそも私はペパーのその提案を断るなんていう選択肢を持っていない。だって、ペパーが作ってくれるサンドウィッチ、本当においしいんだもの!
「もちろんだぜ! よーし待ってろ、今準備するからな」
 アオイが作ってくれたこれ、付け合わせにホイップクリームもよさそうだな、と言いながらペパーがキッチンに向かうのを見て、何故かアオイはとけるようにへにゃへにゃと床に崩れ落ちてしまった。そしてそのまま、傍らにいるマフィティフに抱きついてもふもふの脇腹に顔を埋める。
「マフィティフ、ありがとう〜……」
「ワフ?」


綻びる君の顔が見たいから


2023.2.14


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