ネモとペパーとボタンの三人が他愛もない話に花を咲かせる中、一人アオイの心はどこか遠く宙に浮いていた。
 ここはテーブルシティの中央広場に設置された休息スペースの一角。四人はそこで出店屋台のスイーツを食べながら駄弁っている。だけど今は、未知との遭遇や壮絶な戦いや衝撃的な事実に満ち溢れた大冒険を終えたばかり。アオイも一緒に楽しんでいるはずが、疲れているからなのかせっかくのクレープも少ししか喉を通らず、そのほとんどをコライドンにあげてしまった。
 そんな中、アオイの目に入ってきたのは、赤く染まった空を背に寮へと急ぐ学生たちの姿だった。ネモもそれを見たのか、「あっ、もうそんな時間なんだ」とスマホロトムで時刻を確認した。
「うちらもそろそろ解散しとく?」そうボタンが提案すると、
「そうだな、そうするか」とペパーが同意した。
 夕暮れは既に夜に差し掛かり、陽が沈む反対側の端からその色を暗く染め始めている。街には寮に向かう学生の他にも、家路につく人々や、街のどこかに用意されているのであろう寝床に向かうポケモンたちの姿があった。テーブルシティの上空を抜けてねぐらへと急ぐとりポケモンたちの黒い影も見える。
 そんな光景に、アオイはふと、家に帰りたい、ママに会いたい、と思った。
「アオイ、どうしたの? 寮はこっちだよ」
 ネモに声を掛けられてアオイははっと我に返る。
「うん、ちょっと……今日は家に帰ろうかなって思って」
 急に母の顔が見たくなってしまった、とは言えなかった。家に帰りたいというのが意味するのはそれとほぼ同じだと分かっていたし、きっと三人もその気持ちに気付いているだろうけれど、今ペパーの目の前ではそう口に出して言うことはできなかった。
「そっか。たまにはそれもいいんじゃない?」
 ネモがそう言うと、ボタンもペパーも微笑みながら頷いた。
「じゃあ、また明日ね!」
 みんなが手を振ってくれたのと同じように手を振り返すと、アオイは南門の方に走り出した。門を出るとコライドンに乗ってコサジタウンへと向かう。プラトタウンを抜けた先にコサジの灯台が見えてくると、そうだ、私の冒険はここから始まったんだ、と胸に深い感慨が広がった。
 崖の下で力なく倒れ伏すコライドンを見つけ、入り江のほら穴では助けてもらい、ペパーに出会ってコライドンのボールを受け取り、ネモと南エリアを見渡したのも、全部ここであった出来事だ。アカデミーの登校初日という点で言えば、アカデミーの大階段の下でスター団に絡まれていたボタンに出くわしたのもこの日のことだ。みんな始まりの日に出会っていたんだ。
 コサジの灯台を通り過ぎると、遠くに水平線を望む突き当たりが見えてきた。それを右に曲がって少し進んだところで止まり、コライドンから降りる。
「ありがとう、コライドン」
「ギャス!」
 コライドンをボールに戻すと、アオイは上り坂になった先にある我が家をじっと見つめた。窓から溢れる明かりが、街灯の少ない小さな町をそっと暖かく照らしている。一度立ち止まったら、足がずいぶん重たく感じて、ねをはるを使ったときのようにその場から動けなくなってしまいそうになったけれど、涼やかさを増してきた風に背中を押されてゆっくりと歩き出した。
 家の庭先まで来ると、まずアオイを出迎えてくれたのは穏やかな光を湛えるランタン。ただの趣味とは思えない、かなり本格的で彩りも見事な家庭菜園。そこで育つ花や野菜、手入れされたばかりの湿った土の匂い。そして爽やかに吹き渡る風に海と辺りの木々がざわめく音。ここに住むようになってからまだそれほど経ってはいないけれど、それでもここは確かに自分の家だと、自分の家に帰ってきたと安心する光景だ。
 玄関先まで歩いて、アオイは一度深く息を吸った。いきなり帰ってきたらママはびっくりするだろうか。今日家に帰るって一言くらい連絡入れればよかったかな。ふと湧いてきた不安をごくりと喉の奥に押し込むと、震えそうになる手をどうにか抑えてドアを開ける。
「た、ただいま……」
「あら、おかえりなさい、アオイ」
 にわかには理解しきれない、信じられないようなことばかりだった大冒険をしてきた後だけれど、母はなんでもない普通の日と同じように迎えてくれた。普段と変わらないその笑顔に、ああ、いつもの日常に帰ってきた、と実感すると、アオイをここまで立たせていた、緊張と気力を縒り合わせてできた糸がぷつりと切れて、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。それと同時に、今までどうにかせき止めて考えないようにしていた気持ちが波のようにアオイの心に押し寄せてくる。
 ああ、ママがいる、この世界にたった一人しかいない私のママ。そう安心する一方で、そうしなければパルデアの安寧が失われてしまう事態だったとはいえ、誰かのそれぞれ代わりのいない親と子を自分が永遠に引き離してしまった、博士に自分の子と別れる決意をさせてしまったという事実がアオイの心をきつく締め上げた。目元がじんと熱くなって、息をするのも苦しくなる。あの時もっと冷静になってタイムマシンを止める他の方法を考えれば、博士が未来に行かなくて済む、二人がこの世界で一緒に暮らせる可能性もあったかもしれないのに!
 アオイは冒険を終えて無事に帰ってきた安心感や、母親を失ってしまったペパーを想うとどうしようもなく溢れてくる悲しみや、親子を別れさせる他にどうすることもできなかった自分への怒りが複雑に入り混じった感情の波に呑まれて、しゃがみ込んだまま動けない。そんなアオイに、母はどうしたのと尋ねるでもなく、手を取って立ち上がらせるのでもなく、そっと魔法の言葉をかけるのだった。
「……アオイ、何か食べる?」
「…………うん」

 食卓について、野菜がたくさん入ったコガネ色(遠くの地方にこういう色をした街があると母が教えてくれた)に澄んだ温かいスープを一口飲んでアオイはやっと人心地ついた。
「はい、どうぞ」
 そしてアオイの前に差し出されたのは、これまた野菜がこれでもかと挟まれたサンドウィッチ。それは昔から母がよく作ってくれたおやさいサンドだった。正直あまり好きではない味なのだけれど、
「いただきます」
 そう言って一口囓ると、ふっくらと焼き上げられたパンと、新鮮なみずみずしい野菜の香りが口の中に広がった。一回噛むごとにパンの塩気と野菜のほのかな甘みが混ざり合って、その素朴だけど確かな味わいがどんどん深まっていく。母がパンをトースターで温め直してくれたおかげで耳の香ばしさが増して、それがより一層具材の風味を際立たせていた。
「お、おいしい……!」
 おやさいサンドってこんなにおいしかったっけ? アオイは気付くと夢中でぱくぱくと食べていた。
 ああ、おいしいなあ、おいしいって思うだけで心が温かくなってなんだか幸せな気持ちになるんだなあ、そうしみじみと噛みしめて、一度スープを飲んでまたサンドウィッチを食べようとしたとき、アオイはハッとした。
 ママに負けないくらい、いや、もしかしたらママよりおいしいサンドウィッチを作るあの人、あの人にはサンドウィッチを作ってくれる人もいなかったんだ、だから自分で作るしかなかったんだ。それなのに私には嫌な顔一つせず、むしろ喜んでサンドウィッチを作ってくれた。
 一緒にピクニックをしているときのペパーの笑顔が思い浮かぶと、どうしてか分からないけれどぼろぼろと涙が溢れてきてしまった。それでもサンドウィッチを食べる手は止まらない。むしろ速くなりさえした。見たことのない風景、生態のよく分からないポケモン、そして刻々と揺れ動く状況に身構えて気を張り続けていたから感じなかったけれど、本当はずっとお腹も空いていたんだ。
「……おかわり!」
「あら、そんなに慌てて食べなくたっていいのに」
 そう言って再びキッチンに立つ母の後ろ姿を見て、アオイはコサジタウンに移り住む前、パルデア地方にあるオレンジアカデミーに行きたいと母に伝えたときのことを思い出した。母は初めは驚いた顔をしていたけれど、「そうね、アオイももうこんなに大きくなったものね」とすぐにいつもの笑顔に戻った。
 あの時は、私がアカデミーに行きたいのは別に大きくなったからじゃないのに、と意を決して告げた夢が茶化されてしまったような感じがして反発したい気持ちになったけれど、今は母が発したその言葉に込められた想いが少しだけ分かるような気がした。あれは、人工知能とはいえ一人の母親と全く同じ感情を持つ人が「ああ、こんなに大きく育って……」と、あんなに緊迫した状況の最中においても心の底から感慨深げに発した言葉と変わらない。親というものはきっと、子どもが大きくなること、元気に育つことが何より嬉しいんだ。
 アオイは再び差し出されたおやさいサンドを頬張る。おやさいサンド、今まであんまり好きじゃなかったけれど、これも野菜をたくさん食べて健康に育ってほしいっていう親の「愛情」なのかもしれないな、と思うとまた涙が出た。
「……ねえ、ママ」
「なに?」
 玄関先でうずくまったまま動かなかったり、大泣きしながらサンドウィッチを食べたりしていても何も聞かないでいてくれた、そんな母がアオイの話を聞こうとしてくれている、その声色は本当に優しい。
 愛情ってなんだろう。オーリム博士が古代のポケモンと現代のポケモンが共に暮らす世界を夢に見、その世界こそが楽園と信じ、楽園を作ることで家族を幸せにできると信じ、その楽園で家族と一緒に暮らすためにタイムマシンの研究に明け暮れ、実際にそれを完成させたのは、間違いなく家族、つまりペパーを想う深い愛情がなければ成し得なかったことだっただろう。
 でも、さっきのように最期や別れの間際に愛されていた、愛していたというのを知ったのではお互いにその気持ちは報われない。きっと本当は相手にちゃんと伝えるべきものなんだ。形がなくて、目にも見えないから、はっきり伝えないと届かないものなんだ。だから、私は、この手と声が届くうちに伝えたい。
「……ありがとう」
「あら」
「上手く、言えないけど……ありがとう」
「……うん」
 いつも優しく見守っていてくれて。私をここまで育ててくれて。あんな無茶を言ったのに引っ越しまでしてアカデミーに通わせてくれて。世界で一番大切な友達に出会わせてくれて。宝物って思ったよりずっと、こんなにすぐそばにあるんだってことに気付かせてくれて。
 そして、私は、私の大切な宝物を、この手で守り続けたい。
 あの人は今どうしているだろう。あんなことがあった直後では、どうしても心配になってしまう。私ですらひどく驚いて、悲しくて寂しい気持ちになってママに会いたくなってしまったのだから、当の本人のペパーならなおさらだろう。今はまだ受け入れられなくて塞ぎ込んでしまっているかもしれない。私が博士とペパーを永遠に引き離すきっかけの一つを作ってしまったことは一生変えられない事実だ。でも、だからこそ、私が彼にしてあげられることがあると信じたい。いや、なくては困る。ペパーと一緒に冒険したあの時、私が楽しくてしょうがなかったのと同じように、私がいることで幸せとはいかないまでもどこか心が満たされていたら嬉しいから。なんて、私が言っていいのか分からないけれど。
 でも、どんな時でも私がいるよと伝えたい。これからも、一緒にピクニックをして一緒にサンドウィッチを食べたいから。
 アオイは食器を片付け自分の部屋に戻ると、真っ先にスマホロトムを起動した。
「あ、もしもし、ペパー? ……今、ちょっといい?」


温もりの食卓


2023.2.11


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