「またのご来店お待ちしております!」
 よく晴れたとある休日の昼下がり、猫カフェから出てきたヤイバの顔は降り注ぐ日差しに負けないくらいの輝きに満ちている。
 一方でユウマは猫が自分の方に寄ってきてくれなかったのを不服に思っていた。ユウマはおもちゃを勢いよく動かしすぎなんだって、とヤイバは笑うけれど、逆に弱々しい動きでは猫はなかなか反応せず、どうにもその力加減が難しい。そう言うヤイバのおもちゃ捌きは、一振りで猫カフェの全ての猫が一斉に走り寄ってくるほどだった。
 おもちゃで寄ってこないだけならまだ仕方ないと割り切ることができた。ヤイバの方に寄ってきた猫に指を出せば爪を立てようとしてくる始末で、猫カフェに来ているというのに猫を撫でることすらできなかったのだ。自分とヤイバの何が違うというのだろう。ただおもちゃの扱いの腕が段違いだというだけではないか。
 そうしてヤイバの膝上を占領し顔周りをめちゃくちゃに撫で回される猫を見て悔しさまで覚えたけれど、それはヤイバだけがそうして猫を構うことができるのが羨ましかっただけだ。決してヤイバにそういうふうに猫可愛がりされたいというわけではない。
 ユウマは猫カフェを出てからも悶々とした気持ちを抱えていたけれど、その気持ちはヤイバの笑顔を見ていると次第に薄れていった。
 それにしても今日のヤイバはよく笑う。つまり、それだけ良いことがあったということだ。先ほどの猫カフェで猫をもみくちゃにし、猫にもみくちゃにされたのがよっぽど良かったのだろう。ランチメニューの質と量も悪くなかった。
 いずれにせよ、ヤイバが笑っているのだからそれでいい。ヤイバの笑顔を見ているとユウマも何となく心が満たされていく心地がするのだった。
 そうヤイバの顔を見つめていると、
「ユウマ、なんだか楽しそうだね」
 とヤイバに意外な言葉を掛けられた。
「そ、そうですか?」
「うん。だって笑ってるもん」
 笑うということはそれだけ良いことがあったということ。ユウマは先ほどまで考えていたことを思い出して、顔に出てしまうほどに心が緩んでいたことに驚き思わず口元に手を持って行く。
「ヤイバだって笑っているじゃないですか。先ほどの猫カフェがとても良かったんですね」
 ユウマのその言葉にヤイバは少し言い淀んだ。
「うーん、それもあるけど……私はユウマと一緒にいるから楽しいんだよ」
「俺と一緒にいると楽しい……?」
「うん。……ユウマは、違うの?」
 ヤイバにそう訊かれて、ユウマの脳裏にいつかうわ言のように発した言葉が過った。
(そうだ……楽しかった……戦うこと、以外でも……俺たちは――)
 その言葉を皮切りに、もう遠い過去のことのような出来事が次々と思い出される。
 セブンスエンカウントでの共同演習。どちらが先に最上階へたどり着けるかの勝負で、ギリギリのレベルに必死で食らいつき成長を見せる姿を見た。その姿に真竜を倒すために共に力を高め合う相手として頼もしさを覚えたし、実力を近しくする人との競争に今まで感じたことのなかった高揚感や充足感を抱いた。
 ラウンジでの会話。しっとりとした雰囲気の中、ゆっくりと腰を落ち着けて、任務を遂行している間にはなかなかすることのできなかったような話をたくさんした。ただ単に雑談と言ってしまえるような他愛ない会話ばかりだったけれど、それでも束の間の息抜きの時間を存分に味わうことができた。
 そして擬似デート。ヤイバと同じ空間で同じ時間を過ごして、誰かと一緒にいることで得られるやすらぎという感覚の心地の良さやあたたかさを知った。
 ノーデンスと共同で行うことになった真竜討伐の初めての任務に赴く際にヤイバに言った「楽しみにしているんです」という言葉通りにユウマは自身が思っている以上にヤイバと共に過ごす時間を楽しんでいたし、その思い出の中のヤイバもとても良く笑っていた。
 ただ一度、薄暗い国会議事堂の旧ムラクモ本部で真正面から対峙した、あの時だけを除いては。
「……いえ、俺も。俺もヤイバといると楽しいです」
「えへへ、良かった」
 そう言ってまた笑うヤイバの顔に、息をするのも忘れて見入ってしまった。今まで見てきた笑顔とはまた違う、春の午後の日差しによく似たやわらかな表情だった。
 ヤイバの笑顔を見ているとユウマも思わず口元が緩んでしまう気がするのだった。ヤイバの笑顔をすぐそばでいつまでも見ていたい。こういう気持ちが、いわゆる「好き」だとか「愛」だとかいうのだろうか。以前の擬似デートで感じた不思議な居心地の良さややすらぎという感覚が、少しずつ形を変えてユウマの心をぬくもりで満たしていく。
 けれど、ユウマはそれが本当に愛というものなのか確かめる術も、この気持ちを表す手段も持っていなかった。それでも、今この瞬間に確かめなければならないと思った。だってこれは、ヤイバと一緒にいるときにしか湧いてこない気持ちだから。
「ヤイバ」
「なに?」
「今日は先日の擬似デートの続きですよね」
「まあ、そうだね」
「俺が君に擬似デートを申し込んだのは恋愛感情とは何かを知るためです。だから、そういう感情を持っている人がそれを示すのにどういう行動をするのか知りたいのですが」
 ヤイバと擬似デートをすることで恋愛感情の理解を試みたユウマだからこそ、気持ちを知るためにまず行動から入ろうとする理屈は正しいと言える。ただ、その訊き方では、恋愛感情とは何か既にほぼ分かっている、それだけでなく、ヤイバに恋愛感情を抱いていると言っているようなものだけれど。果たしてヤイバもそれに感付いたかどうか。
「それは……やっぱり、こうじゃない?」
 ユウマを見上げながらそう言うと、ヤイバは左手の指をユウマの右手の指と指の間にそっと絡めた。
 それは驚くほど柔らかく、そして小さな手だった。いつも目の前で真竜を斬り伏せていく驚異的な力を有している所為か、ユウマにはとても力強く大きく見えていた手は、ユウマの手の中にすっぽりと収まってしまいそうなほどの大きさしかなかった。この手が竜を狩り尽くし、俺を打ちのめし、そして世界を作り変えたというのか。
 絡められたか細い指を痛めないように、壊さないように、ほんの少しだけ指に力を入れてそっと握り返す。するとヤイバは頬をほんのりと赤く染め、何か眩しいものでも見るかのように目を細めた。その表情にまた目を奪われてしまう。心臓も少し速く、そして強く波打っているように感じた。まるでここで生きていたいと主張するかのように。
 剣も銃も握れないようなこんなわずかな力でも、竜を倒すことしか知らなかった、何かを壊すことしかできなかったこんな手でも、誰かの顔を笑みで溢れさせることができるのか。愛情を表す行動の一つとしてヤイバが教えてくれたことだから、きっと間違いないのだろう。
 けれど、ほんのわずかな力で繋がれた手だ。
「あ、あれ!」
 ふと周りを見渡したヤイバが何かを見つけ突然走り出し、互いの指先がすっと離れてしまう。
 ユウマは虚空にふらりと浮いたままの右手を上げも下ろせもできないまま、人と人の間を抜け自分を置いて一人で走って行く後ろ姿に、不意に心の裏側がうすら寒くなるような感覚を覚えた。それはヤイバがまた自分の手の届かないところまで行ってしまうのではないかという一抹の不安だった。「強さ」であっという間に追いつき追い抜かれてしまったことが、だんだん遠のいていく背中に重なったのだ。
 けれど、自らを嘲るように笑いがふっと口から漏れ、それが不安を覆い隠した。ヤイバがずっと差し伸べていてくれた手に気付かずに、その手を取るどころか振り払って一人で突き進み、ヤイバの前に立ち塞がったのは自分の方だというのに。
 ユウマはヤイバが行ってしまった方を見やる。幸い、賑やかな人通りの中でもその背中はすぐに見つかった。というより、ヤイバの姿はどういうわけかどんな人混みの中にいても自然に目を引くのだ。
 その姿を今一度しかと見つめる。ふと緩やかな風が後方から吹いてきた。その風に揺られて、ヤイバが左手首につけている金属製の小さなプレートがきらりと輝く。
 その輝きを目にした途端、ユウマの脳に剣で斬りつけられたような鋭い衝撃が走った。元は自分の物だったネームタグをヤイバが身に着けてくれていることは前から知っていたけれど、ヤイバがそれを身に着けている意味に思い至ったのは初めてだった。
 ふらりと力の抜けそうになった手を、一度ぐっと握り直す。自分の願いを繋いでくれたヤイバのために、こんな自分でもできることとは。行け、行け。追い風にも背中を押されて、ユウマはゆっくりと歩き出す。
「ね、ユウマ、あれすごくおいしそうじゃない?」
 甘い香りを辺りに振り撒くクレープ屋台を指差し、こちらを振り返って笑うヤイバの左手を再び握る。簡単に離れないように、解けないように、先ほどよりは幾分か強い力で。
「ヤイバ、いきなり走り出さないでください。危ないですから」
「ご、ごめん……」
 ヤイバは顔を赤くして俯き、消え入りそうな声で呟いた。そしてやや間をおいて、きゅ、と手を握り返す感触があった。
「えへへ、ユウマの手、おっきいね……」
「そう、ですか……?」
 その後は二人とも何も言えずにただ押し黙ってしまった。行き交う人々の間で立ち尽くす姿は、まるで二人だけが時が止まったかのようだった。それは流れゆく雲が形を変え、信号が点滅を何度か繰り返すほどだったろうか、二人して黙りこくっている間に互いの指先の温度が混ざり合っていく。
 自分からヤイバの手を握って、そして握り返されてようやく、ヤイバが示してくれたとおり、この行為は二人の想いを繋ぐための最も確実で、最も明解な行為であるということを実感した。そう、ただその手を取る、それだけで良かったのに、どうしてあの時の自分は、こんな簡単なことすらできなかったのだろう。
 また少し強い風が吹いて、ヤイバの左手首のネームタグがユウマの右手に触れた。ヤイバの手元にそれがあるということは、ヤイバとぶつかり合った後に自分が敗北したことに他ならない。
 あの時とは硬さも形も異なる自分の手。指先が丸いからヤイバの手を取ることができる。ヤイバの手を傷付けなくて済む。
 今までさんざん振り払って遠ざけてきたのだから、突っぱねられてもしょうがないと思ったけれど、ヤイバが自分の手を拒まないこと、そして今はその手が自分の手の中にあることがユウマの心をあたたかさで満たしていく。
 ずっと触れていたい、見ていたい、言葉を交わしたい、息をしていたい。いよいよ溢れそうなこの気持ちが、俺がずっと知りたかった感情だというのだろうか。
 す、と口が動くままに言葉を発そうとした瞬間、
「ねえ、あのクレープ食べに行こうよ!」
 とヤイバに手を引っ張られた。
 どうしてヤイバはいつもそうやっていきなり走り出すのか。先ほど危ないからと言ったはずなのに。
 今度こそその手を離すまいと、思わずぎゅっと力を入れてしまったけれど、ヤイバの顔が苦痛に歪むことはなかった。むしろ、きらきらと輝いて見えた。そう、ユウマの手を引きながら、ヤイバはまた笑っているのだった。
 ユウマの手の中にあるのは、思っていたよりずっと柔らかくて小さな手。でも、これくらいで折れたりなんかしない。それどころか足元が揺らぐほどぐいぐいと引っ張られている。そうだ、その程度の強さがなくては困る。ヤイバが救ってくれた世界に、こんな俺まで生かしてくれた世界に、ヤイバ本人がいなくてはどうしようもないじゃないか。これから生きていく道をずっと、ヤイバの隣で歩んでいきたいから。
 それが俺の生きる意味だ。俺のネームタグを着けてくれているヤイバの意志への答えだ。
「さっき猫カフェであんなに食べたばかりじゃないですか。それに、そんなに甘い物ばかり食べたら血糖値やカロリーが……」
「いいじゃん、だっておいしそうなんだもん。それに、こういうときにカロリーとか気にしないの!」
 ヤイバを咎める言葉とは裏腹に、ユウマのその口元は緩み、爪先は素直について行く。ヤイバが口を尖らせる表情さえも、ユウマを笑顔にするのに十分なのだった。
 一つに繋がった二人分の影が踊るように跳ね、人混みの中に消えていく。
 これは擬似なんかではなく、正真正銘本物のデートであるとユウマが気付くのは、いつのことになろうか。



どうかそのまま指先を

2023.11.15


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