5.1章





「あ、ヤイバ! 明日の午後、13班の部屋のキッチン借りてもいい?」
 クエストを終えてノーデンスに戻ってきた私を出迎えたのは、ミオのこの一言だった。
「うん、いいよ。……でも、なんで?」
「なんでって……明後日、バレンタインデーだよ?」
 バレンタインデー。そうか、もうそんな時期なのか、と思うと同時に、ここ最近、ノーデンス社内の空気がどことなく浮ついていたのは、二月の半ばにしては暖かい陽気の所為だけではなかったのだと合点がいった。
 このご時世(なんて、私が言ってはいけないのかもしれないけれど)でも、いや、このご時世だからこそ、こういった季節ごとを楽しむことが大切なのだろう。それで少しでも竜災害がもたらすストレスや不安から逃れられるのなら、これに勝ることはない。
「せっかくだから、ヤイバも一緒に作ろう?」
「わ、私は別に……」
「ユウマさんとかに渡さないの?」
「――っ!!」
 ミオの口からその名前を聞いた瞬間、私の顔は火が出ているのかと思うくらい熱くなってしまった。
「えっ? ――あっ、そうだったの!? ご、ごめん……」
「い、いいよ、大丈夫」
 そうは答えたけれど、あまりに動転してしまって何に謝られて何が大丈夫なのか自分でもよく分からない。ミオのことだから鎌をかけるつもりとかはなかったのだろう(私だって別に隠し通そうと思っていたわけではない)けれど、真っ先にその名前を出すあたり、さすがは分析力、観察力S級の能力の持ち主といったところか。なんて、よく分からないところで冷静になっている自分もいる。
「……じゃあ、なおさら渡さないと! ねっ?」
 しゅんとしたかと思えば、それは一瞬のことで、今はこれでもかと言わんばかりに目を輝かせている。
「で、でも……!」
「よーし、決まりだね!」
 その勢いに気圧されて私がまだ何も言えないでいるうちに、ミオは「じゃあ、また明日!」と手を振って行ってしまった。
「ちょ、ちょっと、ミオ〜〜〜……」
 まだ誰に渡すとも何とも言っていないのに。ミオのこの強引さは嫌いではないけれど。ミオがいなくなってしまってはもうどうしようもないので、部屋に戻るしかなかった。

 部屋に戻るとすぐにベッドに倒れ込んだ。ミオとのやりとりで忘れていたけれど、今日こなしてきたクエストはなかなか骨が折れるものだった。疲れが一気に体にのしかかってきて、もう起き上がれそうにない。今日はこのまま寝てしまおうと瞼を閉じる。眠気がくると、思考も進んだ。
 ――ユウマにバレンタインデーのプレゼントを贈る、つまり、私の気持ちを伝えるなんて、考えたこともなかった。
 私がユウマに対して抱いている気持ちは、今のユウマにはまだ伝わらない、というか、分かってもらえないだろうから。それに、一番の問題は、私の気持ちが伝わる、伝わらない、叶う、叶わないというところではないのだ。
 第四真竜を倒してエデンから戻ってきた後、夕暮れのテラスでユウマと話をした時のことを思い出した。ユウマの決心を聞いて、脳裏にちらりと過ぎってしまった自分たちの運命の行く末。あまりに受け入れ難くて、それ以降、深く考えないようにしてきたし、ずっと目を背けてきた。そんな結末を迎えるのなら、私の気持ちを伝えてもしょうがない。何なら、想いが通じていた場合の方がよりショックが大きい。
 いつかユウマが私に言ってくれた、最後まで共に戦いましょうという言葉が私の支えだった。遠くに行かないでほしい。一緒にいるだけでいい。もう止まることはできないと言った歩みを、どうにかして止めたいと思った。その歩みを、止めるとはいかないまでも、少しでも緩やかにしたいと思った。その歩みの行き先を、少しでも違う方向に向けさせたいと思った。
 でも、不器用に、一途に力を求める、それしかない、それしかできない、そんなユウマを一層愛おしく思ってしまったのも事実だった。
 ――私がユウマにこの気持ちを伝えることが、どこかで何かのきっかけになり得るのなら。
 はっと気が付いた時、まだ真夜中だった。何やら夢を見ていたような、夢うつつで何かを考えていたような気がするけれど、それがどんな内容だったのか思い出せない。心の中に残っているのは、甘さと苦さが混ざった不思議な気持ちと、とある決心だった。
 どうなるか分からないけれど、やっぱり、渡してみようかな。
 でも、なんだかどうにもこそばゆい感じがする。それを紛らわすように寝返りを打つと、心の中に渦巻いていた甘く苦い熱が全身に広がっていくようだった。
 ああ、でも。もう一つ寝返りを打つ。バレンタインデーのことなんか頭の隅にもなかった私には、ミオのあの強引さがとても嬉しかった。

 翌日のお昼過ぎ、ミオはお菓子作りの材料や調理器具をめいっぱい詰め込んだ段ボールを両手に抱えて部屋にやってきた。
「わ、すごい量……! こんなに作るの?」
「うん、まずは13班にあげるし、やっぱりナガミミちゃんにあげるでしょ、もちろんアリーさんとジュリエッタさんにも。そうだ、チカちゃんとリッカちゃんにもあげないと! ……って考えてたら、ノーデンスのみんなにあげなきゃいけないなって思って」
 そう言って首を傾けるミオ。満面の笑みが本当に頼もしい。ミオの料理の腕は私が身を以て知っている。実際、ミオに言われた通りに材料を量って、混ぜて、型に入れて、オーブンをセットして、焼けるのを待つだけで何の心配もなくお菓子ができてしまった。あまりのいい匂いに思わずひとつ摘むと、心までとろけるようなおいしさだった。
「お、おいしい! さすがミオ……!」
「えへへ、よかった、おいしくできて!」
 ミオに習えばラッピングも完璧だった。こうして私の目の前には、つい昨日までバレンタインデーのことなんかこれっぽっちも頭になかった人間が作ったとは思えないくらい素晴らしい出来のバレンタインの贈り物が完成していた。
「わあ、すごい……! ミオ、ありがとう!」
「どういたしまして!」
 手際良くお菓子を袋に包みながら、一緒に作るの楽しかったね、とミオは笑う。綺麗にラッピングされたプレゼントを見ているだけで何故かわくわくする。でも、肝心なのは――。
「じゃあ、後は渡すだけだね」
 ミオにそう言われると息が詰まってしまった。渡すという決心はしたし、ここまできてしまっては、もう、それ以外の選択肢はないのだけれど、私がユウマにプレゼントを渡すところが上手く想像できない。場所は? 時間は? 何て言って渡すの? 考え出すと途端に不安な気持ちでいっぱいになってしまう。
 場所は、ノーデンスだろう。このためだけにユウマをノーデンスに呼び出すのは少し気が引けるけれど、ISDFの基地に赴いたことはないし、行ったとしても門前払いされる可能性が高い。時間は、ユウマの都合によるだろう。もしかしたら、明日はずっと任務で忙しいなんてこともあるかもしれない。何て言って渡すかは、明日の私に任せよう――。
 呼び出しの通信をするためにユウマの連絡先を通信機のディスプレイに表示したまま、頭の中で必死に明日のシミュレーションをしていると、隣でラッピングの作業に勤しんでいるミオの手がディスプレイに当たって、通信が入ってしまった。
「……ヤイバ?」
 何も言えずに固まる私と、無言で必死に謝るミオ。こちらから通信を入れたのに何も言わない私に対してのユウマの怪訝そうな声が聞こえる。
「ご、ごめん、ユウマ、いきなり」
 何とか声を取り戻して通信に答える。大きく脈打つ心臓の音は、聞こえてはいないだろうか。どうにか絞り出した声は、震えてはいないだろうか。
「今は休憩中ですから、大丈夫です。どうしたんですか?」
「あ、あのさ、渡したいものがあるから、ノーデンスに来てほしいんだけど、明日、時間ある?」
「明日、ですか。それなら……今のところ、午後なら空いていますが」
「じゃあ、二時頃に来て。ノーデンスの広場で待ってるから」
「ええ、了解しました。それでは」
 ユウマが通信を切ったのを確認すると、私はふうう、と大きく息を吐いた。
「ごめん、ヤイバ! ほんとにごめん……!」
「ううん、大丈夫。びっくりはしたけどさ……!」
 泣き出しそうなくらいに謝ってくるミオを宥める。こんな思いがけないきっかけでもなければ、一生ユウマに通信を入れることもできなかっただろう。思えば、昨日からずっと、ミオの言動には驚かされっぱなし、感謝しっぱなしだ。
「でも、約束できてよかったね。明日、頑張って!」
「う、うん、頑張る……!」
 ミオの言葉に、私はぎこちなく頷く。肝心なのはここからだ。もうこれ以上は、私が、私の力だけで、頑張るしかない。

 バレンタインデー当日は、二月の半ばにしては温かい風が吹く日だった。
 一際浮足立っているノーデンス社内の空気を余所に、私は正門前広場の外灯の下で、何て言ってプレゼントを渡すか考えながらユウマを待っていた。約束の時間が近づくにつれて心臓の音がうるさくなって、具体的には何も思いつかなかった(というより、あれこれ考えていたことがみんな吹き飛んでしまった)けれど。
 なんとかなるだろう、いや、お願い、なんとかなって、と胸の辺りをとんとんと叩いていると、いつの間にか近くまで来ていたユウマに声を掛けられた。
「すみません、ヤイバ。遅くなりました」
「ユウマ……!」
 ユウマを呼び出した用事が用事だけに、その姿を見ただけで体が熱くなって、どうにかなってしまいそうだ。早鐘を打つ心臓と、赤くなっている顔を悟られる前に、さっとプレゼントを差し出すと、後は口が勝手に動いた。
「今日、バレンタインデーだから。これを渡したくて」
「ありがとうございます」
「……あのさ、バレンタインデーって、分かるよね?」
「ええ、もちろんです。以前、若者の文化について調べた時、バレンタインデーについても読みました。確か……」
 ユウマの言葉を、突如、通信機の呼び出し音が遮った。険しい表情で何やら慌ただしく話し込んでいる。その声色や表情があまり喜ばしい事態ではないことを物語っていた。
「……すみません、緊急の出動要請だそうです」
 通信を終えると、ユウマは心底申し訳ないという顔でそう言った。
「ううん、いいよ。ノーデンスまで呼び出したこっちが悪いし」
「また後日、ゆっくり話しましょう」
「うん、またね」
 私に背を向けて歩き出すユウマ。だんだんと遠ざかるその背中を見て、急ぎの用事だと分かってはいるけれど、思わず呼び止めずにはいられなかった。
「……ユウマ!」
 二月の半ばにしては温かい風が、いささか強く吹く日だった。
 その風に揺れる少し長い髪が、コートの裾が、その風にも揺らぐことのない大きな体が、真っ直ぐな眼差しが、そして、何より、私をここまで引き上げてくれた揺るぎない強さが、どうしようもなく好きだ。
「――ごめん、なんでもない」
 強い風が目に沁みる。そうですか、それでは、と言って再び背を向けるユウマの輪郭が滲んだのは、きっとその所為だ。
 ユウマを思わず呼び止めてしまったのは、少しずつ小さくなっていくユウマの後ろ姿に、ふと、一昨日見た夢のことを思い出したからだった。
 一番の問題は、私の気持ちが伝わる、伝わらない、叶う、叶わないというところではなくて。竜を狩る者としての直感で、ユウマの決心を聞いたあの時、いつ、どこでかは、今はまだはっきりとは分からないけれど、いずれ私たちは衝突する運命にあるのだと、ふっと思い至ってしまったことだった。
 私のこんなちっぽけな一言では、やっぱり、何も変えられないし、変わらないだろう。だから、プレゼントは思っていたよりずっとすんなりと渡せたけれど、結局、一番大事な言葉は言えないままだった。
 これが避けられない運命なら、ユウマが竜災害のない世界で出会いたかったと願ったように、私は、全ての竜を狩り尽くして、第七真竜を倒して、全ての竜がいなくなった世界で、ユウマに想いを伝えたいと思った。それならきっと、何のしがらみもなく、真っ直ぐな気持ちを言えるだろうから。
 気付いた時には、既にユウマの姿はなくなっていた。少しだけ湿っていた目元をぐいと拭う。強く吹いていた風はいつの間にか、辺りの草木を静かに揺らす穏やかな風になっていた。


たった一言、されど一言


2020.2.16


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