カラカラと音を立てる浴室のドアを開けると、火照った体をほどよく冷やす心地よい空気がアラタを包んだ。
 髪の毛から落ちる水滴を拭き取るのもそこそこに、アラタは急いで寝間着を着る。湯船に浸かりながら考えた戦略を、忘れないうちに試したいと思ったのだ。
 しかし、着替えを終えて走って浴場から出て行こうとするアラタの足を、入り口付近にいた見覚えのある二つの後姿が止めた。キキッと音を立てそうなほどの急ブレーキをかけたので、アラタの足にいやな痛みが走った。
 慌てて足の親指の付け根を強く握りながら見上げると、見覚えのある後姿の主は、サクヤとハルキだった。そして、もっとよく見ると、サクヤの手には(自分はもう何年も触っていない)ドライヤーが握られ、ハルキの髪を優しく梳きながら温風を当てていた。
 アラタがもの珍しい光景に目を奪われていると、いつの間に風呂に入って上がってきたのか、ヒカルも風呂場を出るところでこの二人に気付き、ぎょっとした表情をして立ち止まった。
 ヒカルはサクヤとハルキの様子に見入って少ししてから、アラタにちらっと視線をやった。それに気付いたアラタは、足の痛みが引いたことを確認して立ち上がり、ヒカルのそばまで近寄った。
「どういうことなんだこれは」
「俺も分からない」
 サクヤにドライヤーを使って髪を乾かされているハルキを盗み見ながら、ヒカルとアラタは言葉を交わした。
 すると、二人の存在に気付いたのか、サクヤが「ああ、これ?」と二人を見て言った。
「ハルキの髪ってすごく綺麗だから、ちゃんと乾かさないでいたら痛んじゃってもったいないと思ってさ。それに、もう冬だし、風邪ひいたら困るからね」
 ふたりもちゃんと乾かした方がいいよ、サクヤはそう言う間にもハルキの髪の毛を乾かし続けている。サクヤの言ったとおり、ハルキの髪はとてもさらさらしていて、瞬く間にサクヤの指の間をするりと抜け落ちていく。
「よし、終わり! ハルキ、もういいよ!」
「ありが……ッ!!」
 サクヤがハルキの頭から手を離すと、突然ハルキの肩が大きく揺れた。アラタとヒカルが何事かと思っていると、
「ああ、ごめんハルキ! 触っちゃったね」
 とサクヤが謝った。
「いや、まあ……大丈夫だ」
 ハルキは後頭部をさすりながら答える。
「…………。」
 これはいいものを見た、とアラタとヒカルは目を光らせた。

 翌日、アラタとヒカルは協議をして、今日はアラタが、明日はヒカルがハルキの髪の毛を乾かそう、という話になった。
 ハルキはどうやら後頭部の刈上げの部分が弱いらしい。昨日のサクヤとのやりとりを見てそう確信したアラタは、ハルキの髪を乾かしながら、わざと触ってやろうと企んだのだ。
 それだけのことなのに何故かとても楽しみでしょうがなくて、授業中はおろかウォータイムでも浮き足立った状態で、危うく仲間をブラストマグナムの餌食にするところだった。
 さて、ハルキのお叱りをばっちり受けた夕飯の後は、お待ちかねのお風呂タイムである。
 過去最速なのではないかという速さで風呂から上がり、風呂場の入り口付近に待機し、ハルキが上がってくるのを今か今かと待ち構えていると、ようやくハルキが出てきた。
「お待ちしておりました、隊長!」
「……どうしたんだいきなり」
 アラタの突然畏まった言葉遣いに戸惑うハルキを他所に、当のアラタは「どうぞこちらにお掛けください!」とあくまでも勢いの良い低姿勢を崩さない。
 アラタの豹変っぷりに疑問符を浮かべるしかないハルキだったが、そのような言葉遣いをされて気は悪くないし、その手に握られているドライヤーを見て、隊長である俺をやっと気遣ってくれるようになったのだな、と目に涙を浮かべた。
「では隊長、始めさせていただきます!」
「うむ、よろしく頼む」
 ハルキは感慨に耽りながら、アラタの為すがままに任せた。しかしこれがハルキにとって大きな命取りとなる。
 アラタは始めの方こそ神妙な手つきでハルキの髪の毛を乾かしていたものの、だんだん耐え切れなくなってきたのか、その手つきは怪しくなり、とうとうハルキの後頭部を掠めてしまった。
 やばい、とアラタは縮こまるが、ハルキはわずかに体を動かしただけで、アラタを咎めることはなかった。
 それで吹っ切れたのか、それとも安心したのか、夕方に怒られたこともあって、あれほど楽しみにしていたけれどやっぱりやめようかと躊躇っていたアラタの心に、やはりやるしかないという決心が生まれた。
 一呼吸、二呼吸おいて、アラタは、えいっ、とハルキの後頭部の刈上げの部分に触れた。ハルキの肩が面白いくらいに跳ねる。もう一度。今度は椅子から数センチ浮いた。もう一度……。
「あれ?」
 気付くと、電源が入りっぱなしのドライヤーを奪って、アラタの前に立ちはだかるハルキがいた。
「……突然俺への態度が良くなったと思ったら、そういうことか」
「あはは……いや……あの、これは……」
 ハルキは訳を説明しようとするアラタをキッと睨みつけてから大きくため息をつく。
「もういい。俺がやる」
「ええ〜っ……」
 早く乾かさないと寮の電気代がもったいないな、とひとりごちて黙々と髪を乾かし始めるハルキにアラタはぶうたれるが、もはやハルキにはアラタに貸す耳はなかった。
 その一部終始を物陰から眺めていたヒカルは、肩をぷるぷると震わせていた。

 翌朝、ハルキはアラタに背後を取られないように慎重に行動していた。
 それを見て、僕はアラタのようなヘマはしない、確かにハルキは後頭部の刈上げのところが弱いのだろうが、触るならもっとスマートに触るべきだ、とヒカルもハルキの後頭部に思いを馳せていた。
 ヒカルはアラタに比べて冷静に見えるものの、昨日のアラタと同じようにどこかそわそわしていた。
 授業はなんとか乗り切ったが、ウォータイムで段差を飛び越えられずにバル・ダイバーを転倒させてしまうというちょっとしたアクシデントを起こした。
 ヒカルにはハルキのお咎めはなく、むしろ心配までされたが、ハルキ自身は不思議なデジャヴを感じていた。同時に頭の辺りがぞわぞわした。
 そして今日もお待ちかねのお風呂タイムである。
 昨日の教訓を生かし、ハルキは早めに風呂に入り自分で髪を乾かしていた。
 ハルキが風呂に入ったのは確かに早かったのだが、ヒカルはそれよりさらに早く風呂に入ってハルキを待ち伏せていたのだ。
 髪を乾かしているハルキの後ろにそっと忍び寄り、「ハルキ」と声を掛けると、ハルキは勢い良く振り向いて、大げさに構えた。
「……お前も俺の髪を乾かしに来たのか」
「ああ」
 お前にはやらせん、とばかりにハルキはドライヤーを強く握る。
「大丈夫だ。僕はアラタみたいにハルキの頭に触ったりしない。僕は僕が言ったことを裏切ったことがあったか?信じてくれるだろ?」
 ヒカルは有無を言わせぬ口調でそう言った。俺の命令を聞いてくれないことは今までいくらでもあったがな、と思いながらも、ハルキは気圧されてヒカルにドライヤーを渡すしかなかった。
「……では、よろしく頼む」
 ヒカルはドライヤーを片手にハルキの髪を手に取る。サクヤがやっていたのを思い出して、それをなるべく真似てみた。
 温風で踊るハルキの髪。日本人に典型的な髪色、まして男の髪の毛を、こんなに綺麗なものだと思ったことは、今まで一度もなかった。
 そうだ、僕はあの阿呆なアラタとは違って、ハルキの後頭部を触りたかったんじゃない、髪を乾かすこと自体が目的だったんだ、ヒカルはそう再確認して、黙々とハルキの髪の毛を乾かしていく。
 しかし。さらさら、するん、と指を滑り落ちていくハルキの髪を見るにつけて、ヒカルの心の中で何かが膨らんでいった。
 それは怒りにも似た嫉妬の気持ちだった。ハルキの髪の毛はあまりにもさらさらしすぎていたのだ。
 ヒカルの髪は縛ったり解いたりするとき、いやというほど指に絡まる。これはもう仕方がないことだと諦めてはいたのだが、こうも髪質の違いを見せつけられては、世界最強プレイヤーの星原ヒカルが黙っちゃいられない。
「……ヒカル?」
 不穏な空気を感じ取ったのか、ハルキが不安げに声を掛けてくる。しかしもう既に時は遅かった。
 ハルキの髪を梳くヒカルの手がいささか乱暴になったかと思えば、強さも回数もランダムにハルキの弱点を狙ってきた。肩が跳ねるなど通り越して、ハルキの背筋が硬直する。それは、スマートもへったくれもない触り方だった。
「ややや、やめてくれ!」
 ハルキは思わず立ち上がる。見れば、ヒカルはものすごい形相で息を荒くしてドライヤーを握っていた。
「……お、お前になにがあったのか分からんが、や、やっぱり俺がやる……」
 ハルキはヒカルの手からドライヤーを取り返すと、ハルキは自分で恐る恐る髪を乾かし始める。
 その一部始終を物陰から見ていたアラタは、体をぶるぶると震わせた。

 このことがあってからしばらく、ハルキは常に後頭部を守ることに意識を集中せざるを得ず、とうとうウォータイムで(コントロールポッドの中は完全に一人きりであるというのにもかかわらずである)トライヴァインの着地を失敗させるに至ったとか、なんとか。


後頭部にご注意を!


2013.12.10


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