※お互いの部屋の位置関係を勝手に改変しています



 右の方から何か物音が聞こえた気がして、ハルキは机から身を起こした。
 ……ああ、いつもの合図か。自分より先に寝ようとする隣の部屋の住人に、合図を送り返す。
 手の甲でゆっくり、コン、コン、と壁を二回叩く。その音は、静けさに包まれた部屋の中で軽やかに響いた。
「おやすみ」
 小さな声でサクヤに挨拶して、ハルキは自分の机に目を落とす。課題が「まだ終わってないぞ」と言わんばかりにこちらを見ている。ちょっと戦闘報告書が大変だからって課題も進められずうつらうつらしてしまうなんて、俺もまだまだだな。窓から見える海に月影がゆらゆらと揺れている。ハルキの夜はまだ少し長かった。

 そもそもこの二人だけの合図を始めたのは、何がきっかけだったか。そういえば、あの日も今回のように突然、サクヤの部屋からゴトンという気掛かりな音が聞こえてきたのだった。
 サクヤのことだからLBXに問題を起こすはずはない、と思いつつも、もしサクヤかLBXに何かあったらまずい、とハルキは課題を投げ出して隣の部屋に急いだ。
 慌ててサクヤの部屋に入ると、サクヤは痛そうに額をさすっていた。
「大丈夫か!?」
「あっハルキ……大丈夫だよ、机に頭ぶつけただけ」
 うとうとしながらLBXの修理をしていて、眠気のピークで机に強かに額をぶつけたという。ほっと息をついて机の上を見ると、まだ分解されたままのLBXがあった。
「修理、終わらないのか」
「うん……もうちょっとなんだけど」
 サクヤは大きく欠伸をしながら言う。もう十一時を回ろうかというころである。
「ちょっと待っててくれ」
 ハルキは急いで自分の部屋から課題を持ってくる。
「俺が寝ないように見ててやる」
「ハルキも課題終わってないの?」
「戦闘報告書が大変でな」
「そりゃこの壊されようじゃ、ね」
 傍らの無残に片腕を破壊されたLBXを一瞥してサクヤが困ったように笑う。日に日に激しさを増していく戦闘の痕。みな疲弊しているのは同じだが、メカニックは連日の修理で、小隊長は戦闘報告書で、疲労の蓄積はより大きく、速い。
「じゃ、始めよっか」
 今日はもうひと踏ん張り、とサクヤが気合を入れた。

「でも、よく聞こえたね」
 綺麗に修繕されたLBXの最後の調整をしながら、思い出したようにサクヤがぽつりと言った。
「……結構な音だったぞ?」
「あはは、次から気をつけるよ」
 サクヤの額はもう痛そうではなかった。ハルキの課題も無事終わり、お互い心地よい達成感と眠気に包まれている。
「あ、でも」
「なんだ?」
「もう気をつけるけど、もしまたこんなことがあって、朝になってもLBXの修理が終わってなかったら嫌だから……」
「いくらでも課題持ってきてやるぞ」
 冗談めかしてハルキが言うと、サクヤも、そうじゃなくてさ、と笑った。
「寝る前にお互い何か言えたらいいかな、って思うんだ」
 でも、部屋を行き来したり、CCMでメールを送ったりするのは、ちょっと手間がかかるし、作業の邪魔になっちゃいけないし……となかなかいい案が出てこないようだ。ハルキはふと、サクヤが机に頭をぶつけた音がハルキの部屋にまで聞こえてきたことを思い出した。
「壁を叩いて合図を送るのはどうだ?」
 これなら大した手間にはならないし、わざわざ相手の部屋に行く必要もない。我ながら名案だ。
「どうだろう……聞こえるのかな?」
 サクヤはハルキの部屋に行って、コンコンコン、と壁を叩いた。ちゃんと聞こえる。ハルキもコンコンコン、と同じだけ叩いて返す。すると、コンコンコンコン、とより軽快に弾んだ音が聞こえてきた。また同じように叩き返す。サクヤは面白がっているのか、このやりとりを何度も繰り返してしまった。
「いいね、これ!」
 部屋に帰ってきたサクヤの頬は上気していた。よっぽど楽しかったのだろう。
「でも、寝る前にこんなにコンコンコンコンしてたらうるさいね……じゃあ、ゆっくり二回叩くから、ハルキもそれで返してね」
「ああ、分かった」
 今日は助かったよ、おやすみ! の声を後にハルキは自室へ戻る。終わった課題を鞄に詰めていると、先程の言葉通り、コン、コン、と壁を叩く音がした。ハルキもコン、コン、と叩き返す。静寂に包まれる部屋の中ではよく響く音だ。そして満足気にベッドに入るサクヤの姿がありありと浮かんだ。
 とても安らぎのあるやりとりだった。

 今日はまだ例の合図はない。それは逆に、今の時間もサクヤががんばっている証拠に他ならない。だから、まだまだがんばろうという気持ちがハルキにも湧く。場を同じくしなくとも、同じ時間に一緒にがんばっている、という事実が励みになる。それはきっとサクヤも同じだと信じている。
 課題は早く終わらせたいが、この時間はもっと長く共有していたい。これは不思議な矛盾だが、温かい気持ちのおかげで課題はサクサク進んでいく。
 神威島の静かな夜は、その音を心待ちに息を潜めているかのようだった。


秘密信号


2016.1.20


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