あの日も、こんな風に綺麗な月が昇っていた。
 ハルキはカモメ公園の手すりに肘をついて大きな月を見上げ過ぎた日を思う。もう、何度この公園に足を運んだか分からない。それくらい、この島では悩み迷うことが多かった。次の一歩をどう踏み出したらいいのか、ここに来れば分かるような気がして、でも、いつも分からなくて、結局ただここから見える夜景のどこを眺めるでもなくただぼうっとするだけになってしまう。
 ここで初めて言葉を交わしたときの彼の言葉を思い出した。その言葉が今もなお、ハルキの心に傷跡のようにしみついて離れない。あの言葉が、あの表情が忘れられないから、またここに来てしまうのだろう。あの日からもうどれほど季節が進んだだろうか。ハルキの世界は温度を失ったままで、肌で感じるはずの変化すら分からない。重しを失くして宙に浮いた心は体に収まることはなく、常にふわふわと頼りなく漂っているだけだった。
 早くなんとかしないといけないということは分かっている。でも、その方法が分からない。ここに来れば分かる気がする、なんていうのは建前で、ただ単に彼の面影が恋しくて勝手に足がここへと自分を連れてきてしまうのかもしれない。そうとなれば彼のことを考えてしまうのは当然だった。ハルキは眼前に浮かぶ大きな月をぼんやりと見つめて思考が走るに任せた。



 ハルキはいまひとつ味の感じない夕食を口に運んでいた。初めて敵をロストさせた日のことだった。
 ウォータイムでロストした者は、即刻退学しなければならない。この島に来てからようやく教えられた理不尽極まりない規則は、ハルキにとってかなりの重圧だった。
 「公式大会で三度以上の優勝」というこの学園への入学基準の達成だって、決して楽な道ではなかった。LBXについて学びたいとこの島にやってきた子どもたちの夢を、果たしてこんなに簡単に打ち砕いていいものなのだろうか。みんなも、きっと同じように疑問に感じていると思っていた。
 でも、周りのチームメイトはこのことについてまるで何も感じていないかのように振る舞うし、この島の大人たちは、そんな基準は軽く合格して当たり前、大事なのはここで成果を上げることで、戦場で役に立たない者は必要ない、と言わんばかりの態度をとる。
 だから、ハルキは、ずっと戸惑ったまま、いつロストさせられるかも分からぬ恐怖の中で、誰にも自分の気持ちを打ち明けられずに、闇雲に戦い続けていた。

 そんな弱気な戦いぶりだから、まさか自分がこの手で誰かをロストさせる日が来ようとは、全く思っていなかったのだ。
 夕食を口に運んでいた箸の動きがぴたりと止まる。ハルキが今まで感じていた理不尽な気持ちを、そっくりそのままロストさせた相手に味わわせたのだと思うと、静かに座って夕食を食べるどころの心境ではなかった。
 顔も声も性格も知らない誰かだけれど、その誰かの当たり前だった日常を俺は壊したんだ。
 その意識がハルキの手を重くした。あの相手にも自分と同じようなこの島での日常があって、毎日こうして寮で小隊の仲間とご飯を食べて、授業やウォータイムの任務をこなして……赤の他人、ではあるけれど、その「当たり前」をまさに自分のこの手で壊したことに思い至って、背筋が冷えた。
 ここは誰かの犠牲と引き換えに掴んだ自分の居場所――ずっとこの学園のやり方に理不尽さを感じていたハルキだからこそ、それ以上おめおめと夕食を食べるどころの気分ではなかった。箸をそっと置いたとき、後ろから声がした。
「なんだ、もういいのか?」
 ハルキたち第一小隊の隊長、キョウスケの声だった。小隊長の仕事を終えて今寮に戻ってきたところのようだった。ハルキの隣に、ハルキのものと同じ献立を乗せた盆が置かれる。見比べると、それなりに食べたようなつもりでいたけれど、ハルキの夕食はほとんど手がつけられていない状態だった。
「食べる気にならない」
 入れ替わりに席を立とうとするハルキに、キョウスケは、ははん、と笑って言った。
「ロストさせたヤツのこと、気にかけてるんだろ」
 ハルキは心の中を当てられて心臓が跳ねた。そのまま、どん、どん、と内側で強く飛んだり跳ねたりする。
「お人好しだなあ、ハルキは」
 キョウスケはさっそく主食のエビフライに取りかかっている。ハルキがほんの一口しか食べられなかったものを、キョウスケはあっという間に殻までぺろりと胃の中に入れてしまった。ハルキは座り直してキョウスケに言う。
「あまりにも理不尽じゃないか」
 ハルキがやっと、やっとの思いで口に出せた言葉だった。
「今さら言うか?」
 そんな思いを知ってか知らずか、キョウスケは一言で切り捨てた。
 キョウスケはテーブルに肘を突き、その先にタルタルソースのかかった二本目のエビフライを箸で掴んでいる。あまり真面目に取り合うつもりがないようにも見えた。軽くあしらわれているようでカッとなったハルキは何か言い返そうと言葉を探したが、頭じゅうひっくり返しても見つからなかった。正論すぎる。ハルキがそう感じ続けてきたことは事実だが、この島で生き残ろうとする者がとっくに捨て去っていなければならない感情であることもまた事実だった。
 そんなハルキの様子が気になったのか、キョウスケは箸を置き真剣な目をしてハルキに向き直った。
「……あのときヤツをロストさせてなかったら、逆にロストしてたのはお前だったんだぞ」
「わかってる」
 ハルキは項垂れた。そして両手で顔を覆う。
「わかってる……」
 やはり、夕飯はそれ以上食べられなかった。

 穏やかな海の風に頬を撫でられて、ハルキの心は少し凪いだ。
 大きな月が、空と海に浮かんでいる。夜のカモメ公園は、いつもハルキを優しく迎え入れてくれる。さざめく波の音、静かな浜の風、やわらかな遠い街の光……何かについて深く考え込みたいときにも、逆に何も考えず心を空にしたいときにも、絶好の場所だ。
 今日は、何も考えたくない方だった。学園の理不尽な規則のことも、誰かの日常を壊してしまったことも、戦場での厳しい戦いのことも全て忘れたかった。たとえ忘れることができなくても、心の中に渦巻く嫌な気持ちを少しでも軽くしたかった。
 夜風にあおられた髪に頬をなでられて、ふと我に返る。もう長いことここにいる気がする。カモメ公園の風は心地よいとはいえ、長くさらされていると体が冷えてしまう。あと少ししたら、寮に帰ろう。そう思って風や波の音に今一度耳を澄ませていると、後ろの階段を誰かが降りてくる足音が聞こえた。ハルキが振り向くと、その足音の主は残りの数段を飛び降りてハルキの方に向かってきた。
「いつまでも部屋に帰ってこないらしいからどうしたのかと思ったけど、やっぱりここにいたんだな」
 そう小さく笑って言うのは、他の誰でもないキョウスケだった。キョウスケとここで話をするのは初めてのことだ。ハルキとキョウスケは同部屋ではないが、ハルキが何か思い悩むことがあるとカモメ公園に来る、ということをなぜかキョウスケはよく分かっていた。
「……昼間のことか?」
 声をかけられて早々に核心をつかれて、思わずハルキは固くなる。しかし、続くキョウスケの口調は予想外に穏やかで、それがハルキの体の力をだんだんと緩めていった。
「夕飯の時に言ったのと変わらないよ、俺が思ってることは。あの時相手をロストさせなければ、ロストしたのはお前の方だった」
 あの時と違って幾分か頭の冷えたハルキは、ふっと息を吐いて「ああ」と言った。
 しかし、この島で長いことハルキの心と体を縛りつけていた気持ちは、そう簡単に拭えるものではない。心で理解はできても、納得ができないのだ。ふと気がつくと、それでも、それでも……と同じ問いを繰り返している。
 この島に来たのは、こんなに苦しい思いをするためなんかではないはずだ。LBXのことを学ぶために、こんなに苦しい思いをする必要はないはずだ。その思いから、また同じ輪をぐるぐると回り続けてしまう。この輪の外に一歩を踏み出したとしても、それは単なる開き直りにすぎない。誰かに助けを求めたくても、ジェノックの戦況はいっぱいいっぱいで、到底そんなことを言える余裕はなかった。皆は何とも思わないのか。それとも、何か思うことがあっても、それを心の奥底に押し込めて戦いに臨めるのか……。
「守ってやろうか?」
 一度返事をしたきり俯いて、その言葉の先を見つけられずにいるハルキの様子が気になったのか、キョウスケはハルキの顔を覗き込むようにして言った。
「そんなに不安なら、俺がハルキを守ってやってもいいぞ」
「なっ……!」
 今まで考えていたことを見透かしたかのようなキョウスケの言葉にハルキの顔がかっと熱くなる。馬鹿にしないでくれ、そう言いかけて、今の自分は誰に馬鹿にされても何らおかしくないということに気が付いて、ハルキはその言葉を飲み込むしかなかった。
 そもそも今日のことも、数多のLBXを相手にしているうちに味方の声も耳に入らないほど必死になっていて、ふと近くに気配を感じた時には敵が自分の懐に飛び込もうとしていたのだった。咄嗟に相手の胴体を剣で貫いて自分は助かったが、様々な思いに心が囚われていて動きが鈍っているだけでなく、ただ単に機体の操縦、戦況の把握など、戦場での基本的な立ち回りが全くできていないということを痛感させられた。
 それでも、生き残るには、この学園での生活を続けていくには、そうしたいと強く思うのならば、たとえ自分に何か足りないものがあったとしても、必死にもがき続けなければならない。だが、それには心が潰されそうなほどの不安が伴うことだろう。自分に足りないものがあると分かっているからこそ尚更だ。
 俺は、この誰も他に手を回しているような余裕のない状況でも守られるような、それほど心許なくて情けない存在なのか? 俺は、そもそも、俺自身は、誰かに守ってほしいと思っているのか?
 結局キョウスケに何も言い返せず項垂れるハルキを見て、キョウスケは手すりの近くまで歩いていくと、そこに肘をついて静かに波を立てる海を見つめながら語り始めた。
「からかってるとか、冗談で言ってるわけじゃない」
「えっ……?」
「お前の力が必要なんだ」
 ハルキの顔を上げ体の底にまで響くキョウスケの言葉で、ざわっとハルキの心に風が吹いた。こちらを見るキョウスケの瞳には強い光が宿っている。ハルキの心臓が早足でリズムを刻み始める。でも、これは、嫌な気持ちの時のような早足のリズムではない。じわじわと温かくなってくる体がそう教えてくれている。
「今のジェノックはいつ潰されてもおかしくない状態だ。一人でも多くの戦力が要るんだ。いいか、俺が戦力って言うからには、捨て駒とか、実力が伴わないやつでも必要とか言ってるわけじゃないんだからな」
 口調は淡々としてこそいるが、心の奥に何か固い決心でもあるかのようなキョウスケの言葉に、ハルキの心は揺さぶられ続けている。
「お前だって、今日相手を咄嗟にロストさせたのは、まあ、お前自身は相手をロストさせようとは思ってなかっただろうし、やるかやられるかの状況だったからってロストまでさせる必要もなかっただろうけど、相手が目の前に迫っているのに気付いてお前は無意識に手を動かしたんだ。どんな無意識が働いたか分かるか? 誰だってこんなところで死にたくなんかない。つまり、生き残りたい。その経験をしたお前だからこそ分かるはずだ。俺だってそうさ。お前が生き残るためにも、俺が生き残るためにも、ハルキ、お前の力が必要だ」
 誰からもかけられることはない、まして、ジェノックの戦場の一番先頭を行くキョウスケが俺に思っているはずもないだろうという言葉を、そのキョウスケ本人からもらって、ハルキは、あまりに心の振れ幅が大きくなって何も反応することができなかった。ただ、こいつに付いていけば、付いていくことができたならば、きっと、戦場で間違えることはない。そう、前向きな気持ちを、ハルキは久しぶりに取り戻したのだった。
 意志を持った強い視線がぶつかり合う。その二人の間を風が通り抜ける。静かな海面には、大きな月影がゆらゆらと揺れていた。

 それからしばらくというもの、ハルキの戦場は今までになく充実した。相手の戦力を削ぐのにも、戦意を失わせるのにも、それから、自分が攻撃を受けてしまう時にも、ロストではなくブレイクオーバーで十分であることは前々から分かってはいたが、それがようやく実践できるようになると、気持ちにも余裕ができた。キョウスケの勘と指示はいつも的確で、多少の危険は伴いつつも、それに見合う戦果を次々と残していった。キョウスケに付いていけば厳しい戦況もなんとかなると、不安は拭いきれないなりに確信していた。
 だから、あの日、唐突に逝ってしまうなんて、微塵も思いもしなかったのだ。



 大きな大きな月を見上げて、ハルキはふっと息を吐く。キョウスケとここで初めて言葉を交わした、あの日と全く変わらない風景だ。
 キョウスケを失ってからというもの、ハルキの戦いぶりはずっと精彩を欠いた。今までは考えもしなかった、一般プレイヤーと小隊長の戦い方の違い。戦況を見つつ指示を出すには、冷静な判断力が必要だ。しかもそれは、戦場での十分な経験と立ち回りを前提とする。実力不足を悔いている時間はない。その一瞬の隙が、戦闘の結果さえも左右するのだから。
 お前なら、あそこでどんな指示を出す? あの大きな背中と理想を追いかけるたび、現実との距離に気付かされまた立ち止まってしまう。
「キョウスケ……」
 思わずその名を口にした。自分のことを守ってくれると言った、その言葉に違わぬ自信と実力がキョウスケにはあった。なら、最後まで自分の傍で戦っていてほしかった。本当に守ってほしいのは、隣で戦っていてほしいのは、お前がいなくなってからのことなんだ。
 きつく目を閉じ、両手をぎゅっと握り額に当てる。この学園の息苦しさとか、生き残りたい気持ちとか、自分たちの厳しい戦況とかは、最早どうでもよかった。キョウスケがいない、ただその虚しさ、寂しさが波のようにハルキを襲った。――否、絶え間なく心の中に渦巻く重い気持ちの原因がどうでもいいはずがなかった。ただ、キョウスケがいれば、キョウスケがいさえすれば、何もかもが解決するのに、と思った。
 こんなにキョウスケのことしか考えられないのだから、次の一歩をどう踏み出したらいいのかなんてわかるはずがなかった。何かについて考えたいときにも、心を空にしたいときにも最適なはずのこの場所は、キョウスケがいなくなった後、これからどうすればいいのかを考えるのには向かなかった。考え込めば考え込むほどキョウスケのことばかりが頭の中を占めていくし、どれだけ心を空にしようと思ってもキョウスケのことがぽかりと心に浮かんできてしまうからだ。
 もはや、自分は前に進みたいのか、そうでないのかすら分からなくなってくる。これほどお前のことしか考えられない俺が前に進むということは、お前を忘れるということになるのではないか? その想いがまた、ハルキを前進から遠ざける。
 声が聞きたい。その姿が見たい。答えが、否、答えとは言わないまでも、せめて、手がかりが欲しい。握った両手を額に当て目を閉じるその様子は、何かを強く祈っているようにも見えた。
「ハルキ」
 突如、その願いが叶ったかのように、誰かに名前を呼ばれた気がして、ハルキは慌てて振り返った。
 その背中を大きな月影が覆う。ハルキの顔に影が落ちる。
 張り詰めた表情で息もできないまま、声がしたと思う方向を視線が彷徨う。何度も何度もハルキの横を風が通り抜けていったような気がしたが、それに気付くのにさして時間はかからなかった。
 振り返った先には、期待した姿どころか、人の影すら見当たらなかった。止めていた息を吐いて、幻の声の主を探して彷徨うだけになっていた視線をはっきりと階段に向ける。いつか寮に戻らない自分を探しに来てくれたときみたいに、今にもキョウスケがその階段を降りてきそうだったけれど、その姿は二度とここに現れはしないことをハルキは嫌というほどよく分かっていた。
 このまま誰も来ない階段を見ていても仕方がないので、ハルキは再び月に目を向ける。ずっと開いていたままの目には余計に風が沁みて、じわりと月の縁が滲む。
 淡い光でハルキを照らしてくれる月は、見れば見るほど、キョウスケと初めてここで言葉を交わしたあの日と全く変わらない姿で、キョウスケがハルキにかけてくれた言葉を、あの月も知っている、覚えているのではないかという気がした。日に日に形を変えるはずの月が、記憶の中と寸分違わぬ姿で目の前に現れていることが、単なる偶然には思えなかった。
 そうだ。あの日の月の形さえ鮮明に覚えているほどあの思い出が大事な俺が、キョウスケのことを忘れるなんてできやしないじゃないか。どれだけ前に進んでも、キョウスケが俺にかけてくれた言葉が、言葉をかけてくれた事実が、どこかに消えてしまうわけではない。むしろ、深い傷が消えない痕になるように、ずっと心に残って俺を縛り続けていくのだろう――。
 そのことに気付いた瞬間、ハルキの世界に温度が戻って、空になっていたままの体に心が帰ってきた。体がずしっと重たくなって、思わず手すりに寄りかかる。呼吸もつかえるようだった。でも、これは、前に進むために必要な重さだと思った。
 自分ができることは何一つ増えてはいないし、実力不足なのも変わっていない。今の自分のまま歩き続けるのには苦痛が伴うだろうし、また傷つきもするだろう。でも、一歩をどう踏み出したらいいのかではなくて、まずどこかに一歩を踏み出すべきなのだ。それが正解なのかそうでないのかは、それから考えればいい。たとえ間違っていたとしても、また踏み出し直せばいいのだから。
 手すりを改めて両手で握り直す。もうこれからしばらくここには来ないような気がして、思い出の月を心に焼き付けるように見上げた。
 久しぶりに温度を取り戻したハルキの世界は、風が冷たく吹く、澄んだ空気に月の映える季節だった。その風に吹かれて、ハルキの足元をカラカラと音を立てて乾いた落ち葉が駆け回っていく。その音がまるでキョウスケの笑い声のようにハルキには聞こえた。


夜をつまんで二人で食べよう





image song:月光食堂/古川本舗

pictBLand内投稿企画「出だし縛り創作企画」さまの第14回「あの日も、こんな風に〜」に提出しました。
冒頭の出だしの一文はその企画の趣旨によりお借りしたものとなっています。
素敵なお題をありがとうございました!


2018.12.18


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