監督に頼まれた雷門中へのおつかいを終えて、貴志部は雷門中の校門に向かって歩く。
 せっかく雷門中まで来たのだから、サッカー部の練習も見学したかったけれど、生憎練習は休みということだった。立ち止まって見ると、誰もおらず閑散としている所為かグラウンドがやたら広く見える。
 いつもここで神童たちが練習しているのか。その様子が実際に見られなかったことは残念だけれど、グラウンドを目の当たりにして、それをより鮮明に想像することができただけでも充分だった。
 校門を出たところで携帯電話を取り出して、監督に用事が終わったことを伝える。
「分かった。ありがとう」
「そちらは大丈夫ですか……?」
「ああ、なんとかね」
 木戸川は練習日だ。監督はグラウンドでその様子を見ているのだろう、電話の奥からいろいろな喚声が聞こえる。その練習日に何故自分をおつかいに出したのか。監督は「貴志部がいない時に他のみんながどう動くのか、一度見ておきたいからね」と言っていた。その時の表情からするにまだ他に何か理由があるようだったけれど、監督はそれ以上は教えてくれなかった。
 これから帰ります、と言うと、急がなくていいから気をつけて帰っておいで、と返ってきた。練習の様子がどうなっているか気になるけれど、雷門イレブンゆかりの稲妻町を見て回りたいとも思っていたので、監督の言葉に甘えることにして、貴志部は携帯電話を閉じると駅とは反対の方向に歩き出した。

 駅からそれほど離れていないから大丈夫、と高を括っていたのが間違いだった。稲妻町は思っていたより複雑で混み合った町並みで、ちょっとでも道に入り込んでしまうと、土地勘のない人間はもうどこにいるのかが分からなくなってしまうのだ。やっと商店街を抜けて住宅地に出たと思ったら、今度は目印の雷門中が見当たらないという有様だ。
 見慣れぬ土地で道に迷い、貴志部は途方に暮れていた。こうなるくらいならさっさと電車に乗って帰ってしまった方が良かった、と心細さに襲われながら、道も分からないのに早足で住宅地を歩いていると、ふと、誰かがピアノを弾いている音が耳に届いた。
 音楽なんて大した知識も教養もないけれど、何故かその音に心が強く惹き付けられてやまなかった。
 この音はどこから聞こえてくるんだろう? 貴志部はその音に誘われるままに歩みを進めた。

 少し歩くと、いかにも豪邸、お屋敷、というふうの大きな家が見えてきた。先ほどから聞こえているピアノの音はどうやらその家から出ているようだ。一体どんな人が弾いているのやら、と門の近くまで行って目を凝らして覗いてみると、意外な人物が目に入って驚く。
「神童!?」
 思わず人の家の前で大声で叫ぶところだった。なんとか喉の奥で止めることができてふうと息を吐く。
 そういえば、神童はピアノも上手で数々のコンクールで表彰されるほどだとサッカー雑誌で読んだことがあった。確かにその通りでかなりの腕の持ち主のようだ、とピアノのことはよく分からないなりに思う。
 しばらくそのまま耳を傾けていると、お屋敷の中から執事のような人が出てきて、貴志部に気付くと「おや」と声を上げた。貴志部は、まずい、と思って何事もなかったかのように踵を返そうとするが、それより早く、
「拓人さまのご友人ですかな」
 と声をかけられてしまったので、それに答える他なかった。

 執事らしき人に付いて神童家の広くて立派な階段を一段一段上っていくごとに、貴志部の気持ちは重くなっていった。自分の心を惹き付けてやまなかったあの音の主に会えるというのに、何故か心の中は不安でいっぱいだった。こっそり覗いているのがばれてしまったからなのか、神童と会う約束を取りつけていたわけではないからなのか、ピアノの練習の邪魔になってしまうからなのかは分からない。神童はいきなり訪れた俺を迎え入れてくれるだろうか。ただ漠然とした後ろめたい気持ちが貴志部の心を埋め尽くしていた。
「少々お待ちくだされ」
「は、はい……」
 いよいよその音が扉一枚を隔てて目の前になる。逃げ出したくてしょうがなくても、ここまで来てしまってはもうどうしようもない。
 演奏が中断されるのを待って、執事らしき人は扉をノックする。
「拓人さま、ご友人がおいでですよ」
 ややあって扉が開く。
「今日は来客の予定はないはずだが……」
 訝しげな顔をして出てきた神童は、
「貴志部!?」
「や、やあ、神童」
 そこにいるのが貴志部だと分かると目を見開いた。貴志部が稲妻町に来ているとは思いも寄らなかった神童の驚きは、ピアノを弾いているのが神童だと分かった時の貴志部以上のものだっただろう。

 執事らしき人が「では、ごゆっくり」と言っていなくなってしまうと、貴志部は率直に謝った。
「ごめん、神童。約束もしてないのに急に来て」
「いや、大丈夫だ。貴志部こそ、どうして稲妻町に?」
 貴志部の心配を他所に、神童は優しく迎え入れてくれた。
 貴志部は木戸川の監督におつかいを頼まれて雷門中に来たこと、その帰りに稲妻町を見て回ろうとして道に迷ってしまったこと、その時ピアノの音が聞こえてそれを頼りに歩いていると神童の家を見つけたこと、そして執事らしき人に見つかってここまで通されてしまったことを神童に伝えた。
「そうだったのか。そういえば、円堂監督が今日サッカー部に用事のある人が来るから誰か行き合ったら教えてくれと言っていたけど、貴志部のことだったのか」
「ああ」
「円堂監督、全然知らない人が来るみたいな言い方しなくても良かったのに……貴志部が来ると分かってたら、残って練習していたんだが」 
「神童たちが俺たちと試合をした時の雷門の監督は円堂監督じゃなかったし、俺たちが顔馴染みだって知らなかったんじゃないか?」
「ああ、そうかもしれないな」
 そこでお互いの言葉が一旦途切れる。訪れた静寂でまた後ろめたい気持ちが蘇ってきて、貴志部はそれを振り払うように切り出した。
「神童、俺……帰るよ」
「せっかく来たのに、もう帰るのか」
「ああ、ピアノの練習の邪魔になっちゃ悪いしな」
「貴志部……なあ、聴いていかないか?」
 サッカー部の練習を見せられなかった代わりにさ、と神童は小さく笑って言う。
「いいのか? 俺、音楽のことはよく分からないんだけど……」
「ああ、構わないさ。俺も誰かに聴いてもらっている方が練習になる」
「そうか……それじゃあ、お言葉に甘えて」
 かくして、貴志部は自分の心を強く惹き付けたあの音をその主が奏でるところを目の前で聴くことになった。

 神童が音楽の始まりを告げるように、すう、と大きく息を吸うと、途端に神童の周りの空気が色を変えるのが分かった。貴志部の手足にも思わず力が入る。
 神童が弾くピアノの音につられ、絶えず動き続ける空気の流れに負けないように目を凝らしていると、神童の視線が鍵盤に向かっていないことに気が付いて驚く。楽譜を見ているかと思うとそうでもなくて、神童の視線はその音楽が持つ物語の中に向かっているような気がした。でも、演奏が崩壊しないように冷静に見下ろしてもいる。
 神童がピアノを弾く姿を食い入るように見つめて、貴志部はふとホーリーロードでの試合を思い出していた。あの試合で神童が魅せてくれた“神のタクト”の原点がここにあると確信したのだ。
 いつの間にか貴志部の体から余計な力は抜けていて、演奏が終わると、自然と、ぱちぱちぱち、と拍手を送っていた。
「すごかったよ、神童」
「ありがとう。人が間近で聴いているというのは緊張するな」
「その、演奏もすごかったけど、それだけじゃなくて、なんていうか、神童が雷門のキャプテンをやってる理由がよく分かったよ」
 貴志部がそう言うと、神童は驚いたように目を瞬いた。
「そういう貴志部だって、あの木戸川のキャプテンじゃないか」
 思ってもいなかった神童の返答に貴志部はたじろぐ。
「いや、俺は……他のどの部員よりも練習してるっていう自信はあるけど、それだけだよ。神童たちと試合をする前に部内が革命に乗るかフィフスセクターに従うかで割れてた時、どうすればいいのか分からなくて困ってるだけだったし」
「他の誰より練習してる自負があるだけいいじゃないか」
「えっ……?」
「俺だって他の部員よりたくさん練習してるし、そう思いたいけど、どんなに練習してもこれ以上に練習しているんだろうな、って頭を過ぎるような奴が入ってきてな」
 先ほどからずっと神童の口から意外な言葉ばかり出てくるので、貴志部は心の中で口が開きっぱなしになっている。あの神童にそこまで言わしめる部員がいるのか。誰だろう? 俄かには思い当たらない。
「ピアノを弾くのもサッカーをするのと同じくらい好きだ。でも、ピアノを弾いているとピアノに逃げてしまっているような気がして、最近、あまり集中して弾けていなかったんだ。だから、今日は貴志部に聴いてもらえて良かったよ」
 貴志部が聴いているから、と意識して少し力も入ってしまったけどな、と神童は笑う。
「そんな……俺こそ、今日、来て良かったよ。雷門の練習が休みだって知った時はまさかここで神童に会えるなんて思ってなかったから、道に迷うくらいならさっさと帰ればよかったって後悔してたんだ」
 そのまま帰ってしまっていた方が後悔する結果になった。神童が素晴らしい演奏を聴かせてくれたことが、それ以上に、思ってもみなかった神童の言葉が聞けたことが嬉しかった。
 今では、何故神童家に来てから後ろめたい気持ちばかり抱いていたのかも分からないくらいに、貴志部の心は曇り一つなく晴れ晴れとしている。見知らぬ地で聞いた、単なる、と言ってもよさそうなピアノの音が、貴志部の心に大きく響いた理由もはっきり分かった。
「そうだ。貴志部、駅まで送っていくよ」
 神童が唐突に何か思いついた、という顔で貴志部に提案する。河川敷の駅だよな? と訊かれたが、先ほどは帰ると言ったのを引き留めてくれた神童が急に自分を帰そうとするので貴志部は慌てる。
「そ、そうだけど」
 そんな貴志部の心配を読み取ったのか、神童は安心させるように付け加えた。
「河川敷のグラウンドで、いいものが見れると思うんだ」

 神童に連れられて、河川敷の駅まで歩く。ここの駅に降り立って雷門中へおつかいに行ったのがもう何日も前のことのように思える。
 河川敷の駅に着いても、その構内には入らずに高架下をくぐり、さらに先へと進む。
「ああ、やはりやってるな」
 神童が見下ろしたその視線を追ってグラウンドに目をやると、そこでは数人が集まってサッカーの練習をしていた。
「神童、あれが……?」
「そうだ」
 なるほど、と貴志部は腑に落ちた。彼が起こした小さな風は、瞬く間にたくさんの人を巻き込むほどに大きくなって、俺たちに、そして、その先の人たちにも届いたんだ。
 神童が彼の名前を大声で叫ぶと、彼は驚いて振り返った。
「キャプテン! それに、木戸川清修の貴志部さん!?」
「貴志部、あいつらと一緒にサッカーしていかないか?」
「いいのか?」
「ああ、あいつらにとってもいい練習になる」
「そうか、分かった」
 貴志部は神童と一緒に階段を降りて、彼らに混じってボールを蹴る。
 彼らは、正直、まだまだだなと思うところもある。でも、できなかったり、敵わなかったりしても、純粋にサッカーを楽しんでいる。その様子を見て、貴志部も、サッカーは楽しいものだという、自分がサッカーを始めた頃や、木戸川に入学したばかりの頃のようなわくわくした気持ちを思い出した。できなかったことができるようになった瞬間、敵わなかった相手に競り勝てた瞬間、さらにサッカーは楽しくなる。木戸川のキャプテンになってからは周りに気を配ることばかり考えていて、そういった気持ちが自分にもあることをすっかり忘れてしまっていた。
 それに、彼らのこれほどの練習量だったら、このままではいつか自分は抜かされてしまうだろうという危機感も湧いてくる。なるほど神童が素直に負けを認める訳だ。
 監督が俺をおつかいに出した本当の理由は、もしかしたらここにあるのかもしれない、と貴志部は思った。何かと鋭いところのある人だから、雷門中サッカー部の練習が休みで見学ができなくても、サッカーの技術だけではない何かに出会えるということを見抜いていたのだろう。
 監督のことを思い浮かべると、木戸川のみんなの顔も一緒に浮かんできた。今日、見て、聴いて、体を動かして感じたことを、忘れないうちに実践するために、早くみんなに会いたいと思った。
 神童や雷門中サッカー部のみんなが頑張るなら、俺たちはそれ以上にもっともっと頑張らないといけない。雷門中はきっと来年も俺たちの前に大きな壁となって立ちはだかるだろうから、その時、本当の、本気の木戸川サッカーを、神童たちに見せられるように。
 熱くなった体をほどよく冷やす爽やかな風に吹かれながら、貴志部は決心を新たにするのだった。


風の生まれる場所を訊く


2019.3.3


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