「ああ、参ったなあ」
 車のキーを回しながら、吹雪は言った。花を買いに行こうと思っていたのだが、白恋中サッカー部の部員たちの練習に付き合っていたら、すっかり暗くなってしまったのだ。
 暗闇の中に立ち尽くしている電灯が、静かに雪の白を照らしている。
 この時期は、暗くなるとかなり冷え込む。吹雪は手をすり合わせて、はあ、と温かい息をかけた。すぐに解けて消えてしまったその息も、白い。
「まだやってる花屋、あるといいんだけど」
 カチッとシートベルトを締めて、吹雪は街の方へ車を走らせた。

 街へ行く道の途中、吹雪は、遠くの方に不思議な光があることに気が付いた。
 夜の暗闇の中で、その一点だけが妙に明るいというのは、気にしなくても目に入ってしまう。電灯かと思ったが、それとはどこか違う光だ。
 不思議に思いながらも車をどんどん進めていくと、その光もどんどん大きく、はっきり見えてくるようになって――
「(……えっ、花屋!?)」
 モノクロの中に浮かび上がった色鮮やかな世界を見て、吹雪は驚き、咄嗟に強くブレーキを踏んだ。
 白恋中に行くためにこの道は毎日のように通るが、今までこんなところに花屋なんてなかった。それに、ここに新しく花屋ができる予定だったとか、そういう噂も聞いたことはない。単なる見間違いかと思ったが、車を降りて見てみても、それは紛うことなき花屋だった。
 しばらく、吹雪は呆けたようにその花屋を見つめていたが、ふと冷たい風に頬を刺されて、ハッと我に返った。
 どうしてここに花屋があるのか、それは、今いくら考えても分かりそうにない。それに、この花屋に入るのも気が引ける。
 しかし、吹雪は、この花屋にただならぬ雰囲気を感じた。この時間に他のどんな花屋が開いていようとも、今、ここにある、この花屋に入らなければならない……そんな気がしてならなかった。
 ……怪しい。どう考えても、怪しい。この花屋に、どうして僕が入らなきゃいけない理由がある?
 それでも吹雪は抗わなかった。花屋が僕に入れと言っている、だったら、入って何があるのか、確かめてみたいと思うのも、当然のことだろう。
 吹雪は大きく深呼吸した。澄んだ冷たい空気が吹雪の肺を満たして、そして白い息となって外へ出て行き、瞬く間にほどけていく。
 よし、と決心して、吹雪は花屋に向かって歩き出した。

「こんばんは……」
 吹雪は色とりどりの花が並べられている間から、恐る恐る顔を出して言った。鼻をくすぐる匂いに取りまかれながら、店内を見渡す。うん、特に変わった様子は、見受けられないな。店員さんはどこにいるんだろう?
 しかし、吹雪が店にやってきたことに気付いて店の奥から出てきた店員の顔を見て、吹雪は予期せず凍り付くことになる。
「……俺の顔に何か付いてんの?」
「えっ、いや、あの……」
 問題の店員に声を掛けられて、吹雪はハッとした。受け答えすらままならない。心臓がばくばく波打っていて、息が苦しい。胸もぎゅっと締め付けられるようだ。
 そんな中でも、吹雪は彼の声をしっかりと認識した。……そうか、こんな声、してたんだな。
 記憶の中の彼とはだいぶ違っているところもあるけれど、僕が彼を見間違えるはずがない。あんなにもう一度会いたいと思っていたんだから。
 吹雪が目にしたその店員は、アツヤに瓜二つだったのだ。
「……お前、さっきから俺の顔じろじろ見すぎなんだけど」
 彼が今生きていたら、まさにこんな感じだったんだろうな……と、未だに夢心地な吹雪に、例の店員は声を掛けた。
「あ、ご、ごめんなさい」
 彼に掛ける上手い言葉が見つけられない。心臓が早鐘を打ち続けるせいで、意識もはっきりしないところがある。せっかく会えたのに(彼がアツヤ本人であると断定することはできないが)、このまま花を買って帰るだけなんて、僕にはできない。
「……あ、あの」
 吹雪は勇気を振り絞って、彼に声を掛けた。
「ん?」
「僕のこと、知ってますか?」
 吹雪のその問いかけは、かすれ声になって、彼の鼓膜を震わせる。
「……ああ、知ってるぜ」
 彼は頷いた。吹雪は固唾を呑んで、彼の次の言葉を待つ。
「アンタ、十年前にイナズマジャパンがFFIで優勝したときのメンバーだったろ?今はそこの中学校のサッカー部のコーチやってんだってな」
「ええ……まあ」
 吹雪は彼の言葉を受け取り、曖昧に微笑んだ。彼の口からは、吹雪が期待していた言葉は発せられなかった。
 なんだ、やっぱり違うのか……そりゃそうだ、考えなくても分かる。アツヤはもう、ずっと前に――
 そう考える一方で、吹雪は思った。じゃあ、今ここにいる彼が、アツヤにそっくりなのは、なんでだろう?姿形だけじゃなくて、声や振舞い方までもが。 考えても分かりそうにないことばかり積み重なって、吹雪の心は今にも潰れてしまいそうだった。会いたかったはずの人に会えたのに、なんだろう、この、苦い気持ちは。
 そんな風にうなだれる吹雪を見て、店員は一つため息をついてから、吹雪に言った。
「……で、なんか用があって来たんじゃないの」
「あ、そうだ」
 吹雪は顔を上げる。そして、店の中を見回した。
「そんなに派手じゃなくていいんだけど、お供え物になるような花があったらな、って」
「供え物ねえ……」
 彼はそう言うと、店中に並ぶたくさんの鮮やかな花の間を歩き出した。花の芳しい匂いが舞う。
「お、こんなんはどうだ」
 理想の花を見つけ出せたようで、彼は嬉しそうに言った。
 彼がそっと手にして吹雪の前に持ってきたものは、まだ花を咲かせてはいなかった。
「これ……まだ、咲いてないね」
 店員は頷く。
「そうだ。アンタが言った通り、まだ咲いてねえけど、時期が来たら花が開く。たぶん、もうじきだろうな。……あ、言っとくけど、この花は咲いて一晩経ったらしぼんじまうからな」
「ありがとう」
 店員が丁寧にしっかりとくるんでくれたその花を受け取って、吹雪は代金を支払った。
 二人で一緒に店先に出ると、雪がちらちらと舞っていた。寒さも一段と増したようだ。
「気を付けて帰れよ」
 彼は優しく、且つ、厳しい声で吹雪にそう言った。雪の積もった道を見つめる彼の視線は、何気ないようでいて鋭く、彼の眉間には皺が寄っている。
 吹雪は、彼の真剣な目つきに息を呑んだ。その目は余りにも真っ直ぐで、吸い込まれてしまいそうなほどだった。
 吹雪は店員と別れて帰路に就いた。だんだんとあの花屋が遠ざかっていく。

 結局、彼が本当にアツヤだったのかどうかは、分からずじまいだった。
 彼といくらかの会話を交わすことができた今となっては、あんな回りくどい聞き方をせずに、単刀直入に聞いてしまえば良かった、とも思った。……もしかしたら、あなたは、僕の弟じゃありませんか、って。
 でも、やっぱり、できなかっただろうなあ。実感として、吹雪はそう思うのだった。第一、彼にそう尋ねて、万が一にも違ったら、僕は、どうするつもりだったんだろう。
 あっという間に、不思議なあの花屋をずっと後ろに置いてきてしまった。吹雪は、さっきまでのことを少し思い返してみた。
 真っ暗な夜にもかかわらず、あの照明の明るさと、華々しい色合いは、異常なまでに鮮やかだった。花の匂いまで、はっきりと思い出せる。
 店員から花を受け取る時にお互いに触れた、かすかな感触が蘇った。と同時に、ハンドルを握る手の甲に、ぽたり、ぽたり、と雫が落ちる。いつの間にか目から涙が溢れ出ていて、止まらなかった。
 吹雪は泣いた。彼が本当にアツヤだったのかどうか。それはもう、吹雪の中では大きな問題ではなかった。
 ……会えたんだ、僕たち。ね、きっと、そうでしょう?
 助手席に横たえられている、まだその美しい姿を秘めている花は、静かに静かに震えていた。





 翌朝、吹雪は、朝もやの晴れきらないうちに家を出て、あの花屋で買った花を供えに向かった。蕾の様子から、彼が言ったとおり、もうじき咲きそうだ。
 きっと、僕は、この花が咲いているところを見ることはできない。毎日、ここまで花の様子を見に来ることはできないから。
 咲いたら、一晩でしぼんじゃうんだっけ。せっかくの花なのに、彼から、直接、手渡しでもらった花なのに、残念だけど。
 吹雪は花を供えると、じれったい気持ちを残して、そこを立ち去った。
 吹雪と店員がもうじき、と言ったように、その花は、吹雪が供えたその日に花開いた。
 真っ白い花びらをめいっぱい広げ、月の光を受けて、白い雪の上に、わずかに影を落とした。
 ふと突き刺すような風が吹いて、咲いたばかりの花を揺らす。風につられて、白い花びらがひとひら、空に飛ばされてから、ふわりと雪の上に舞い降りた。
 月が静かに優しく、辺りを照らしている、そんな穏やかな夜のことだった。

 ……あの日以来、吹雪があの不思議な花屋を見かけることは、一度もなかった。
 誰に聞いてもそんな花屋は知らないと言うし(白恋中サッカー部の部員たちには「熱でもあるんじゃないですか?」とまで言われてしまう始末)、自分でも、余りにも突拍子なさすぎると思う。やっぱりあれは、自分が見た夢だったりするのかもしれないな。
 あの花も、どうなったんだろう。今じゃもう、咲いている姿を見ることはおろか、その花自体があそこに残っているかどうかすら怪しいけど。
 そうだ、今日、帰りにあそこに寄ってみようか。今日はちゃんと、まだ日が残っているうちに。
 吹雪は、わずかに残る手の感触を思い出しながら、そう思うのだった。


2012.12.8


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