どこからか吹いてくる気持ち良い風に頬を撫でられて、跳沢ははっと気が付いた。
 目を開くとそこは見慣れない場所で、慌てて飛び起きる。蒸すような暑さもあって急に嫌な汗をかいた。以前、時間通りに起きられなくて朝練に遅れそうになったことがあって、その時も、目が覚めた瞬間にどっと汗をかいたけれど、どうして寝てる間じゃなくて起きた時に汗をかくんだろう?
 気持ち悪さを紛らわそうと、とりあえず額の汗を拭いていると、「あ、起きたのか」と後ろから声がした。振り向くと、和泉が小さな丸い盆に麦茶の入ったグラスを乗せて立っている。
「うわ、やべえ、俺、どんくらい寝てた?」
「うーん、まあ、三十分くらいかな」
「案外寝てたな」
 そう言うと和泉は笑ったが、跳沢は未だに汗が止まらない。
 ここは和泉家の中で一番大きな座敷。先程見慣れないと言ったのは、寝て起きた時に目に入る光景としてであって、特別おかしな場所に居る訳ではない。そうでなければ、仮にも人の家でこうゆったりと寝ることなどできるものか。どうにもこの家は居心地が良すぎるのだ。

 和泉が持ってきた盆を置いて跳沢に麦茶を勧める。氷でよく冷やされたそれを何口か飲んでようやく跳沢の汗も止まり始めた。
「あーあ、夏休みももう半分終わっちまったよ」
 グラスから口を外して恨めしそうに跳沢は言う。サッカー部の練習はお盆を含んだ一週間が休みで、今日はその三日目。目の前にはお世辞にも進んだとは言えない宿題の群れ。練習のある日は疲れたからと、練習のない日でも一人ではなんだかんだと言って後回しにしてしまうそれを片付けるために和泉の家に来たのに、気を抜いたらあの有様だ。このままではあと四日で宿題を終えるなんて夢のまた夢だ。休みが終わればまたサッカーの練習に明け暮れる日々が続いて、宿題をやるどころではなくなってしまう。
 ある日、練習帰りに和泉にどれくらい宿題が進んでいるかを訊いた時、「俺? 全然だよ」と言われて一瞬安心したけれど、和泉の言う「全然」は自分で言う「それなり」に当たることを跳沢はすぐに思い出して暗い気持ちになった。仮に、本当に和泉が全然宿題を進めていなかったとしても、和泉は要領がいいから、自分がうだうだしているうちにぱっと終わらせてしまうだろう。
 今だって跳沢が漢字の書き取りに苦戦している間に和泉は数学の課題を進めている。跳沢のように勉強や課題をコツコツ頑張るのが苦手な人間にとって数学の課題が一番の難関だった。特に範囲や内容は指定しないが、一日一ページ、計三十ページ以上ノートに問題を解いてこいというのが数学の課題なのだが、こういうのが一番困る。いっそ新しい問題集をぽんと一冊配られてそれを全部解いてこいと言われる方がまだマシだ、とさえ思う。問題を解くのに頭を使わなきゃいけないのに、さらに内容まで自分で考えないといけないとなると、その課された膨大なページ数もあってつい遠ざけてしまう。遠ざければ遠ざけるほど後で泣く羽目になると分かっていても。
 こっそり和泉の課題を覗くと、驚いたことに、二年生になってすぐに習ったところから、普段の宿題や復習用に渡された問題集を解き直している。
「和泉でもそんなところから復習するんだな」
 跳沢の口から思わず漏れた言葉を聞いて、和泉は笑った。
「人の宿題見てる余裕あるのか?」
「いや、数学どうしようかと思って」
 だってさ、とんでもない量じゃん、と跳沢が言うと、
「まあ、これはただのページ稼ぎだよ」
 と和泉は頷く。彼が言うには問題集や教科書に載っている問題をとにかく解きまくってページを埋めてしまうことが大事で、それでも余るようなら苦手だと思う部分をまた解き直せばいいのだとか。
「跳沢も先に数学やった方がいいよ、漢字なんか後でひたすら写経で済むんだから」
「確かに……あ、でも、それなら英語だってめんどくさいぜ」
「英語だって一緒さ。単語とか教科書の英文写せばいいんだよ。数学と同じ三十何ページっていったって、英語のノートなんて行間スカスカなんだから、むしろ一番楽かもしれないよ」
「なるほどな」
 和泉にそこまで言われると跳沢も納得せざるを得ない。でも今は漢字の書き取りに取り掛かっている最中で、これをキリの悪いところでやめてしまうのは気持ちが悪いので、今のところは数学は後回しにすることにした。
「なんだ、結局数学やらないのか」
「明日からやるよ、明日から」
「まあ、何かしら進めておくことは悪くないからな」
「だろ? それに全部ちゃんと終わらせないと貴志部がうるさいしな」
 あはは、と和泉は笑った。監督はそうでもないが、貴志部がとにかく課題の未提出に厳しい。休み明けまでに宿題が終わっていないと、宿題を終えるまで練習に出させてもらえないのだ。さすがの跳沢も練習に出る方が好きだから、どんなに泣き言を言っても最終的にはきちんと片付ける。もうこんな大変な思いはしたくないと思いながらつい先延ばしにしてしまうので、結局いつもギリギリになるのだけれど。
「やっぱり、机出そうか?」
 しばらく無言で宿題を続けていると、ふいに和泉が切り出した。その方がやりやすいだろ、と和泉は言うが、
「いらねえよ、どうせ机あったって突っ伏して寝るだけだし」
 先ほどの失態を思い出して跳沢はそう返す。和泉はまた、あははと笑った。
 跳沢は広い座敷の隅に立てかけられている和泉が言うその机をちらりと見る。そもそも、机と言っても折りたためるような一人用の小さなものなんかじゃなくて、親戚が集まって食事をするときに出すような大きな机だ。それも和泉家のものだからとんでもなくデカい。わざわざそれを出して、二人で並んでか向かい合ってか知らないが宿題をするなんて想像しただけで滑稽だ。確かに畳にうつ伏せでやるよりははるかに楽だろうけど、俺は畳の匂いとか触り心地とか、結構好きなんだよな。

 またしばらく黙って宿題を進めていると、突然和泉が「奏秋」と和泉の母に呼ばれて出ていった。
 跳沢はちょっと休憩するか、と既にぬるくなってしまった麦茶を飲みながら庭の方を見た。
 また緩く風が吹いてきて、跳沢の髪を揺らす。今跳沢がいる和泉家の座敷の大広間は、両側の襖や障子が開け払われて風がよく通るようになっている。軒下には波のような模様が薄く入った風鈴が吊るされていて、風が通るたびに涼やかな音を辺りに響かせている。風鈴の近くに朝顔の大きな花が見えた。その元は庭の花壇から伸びて、二階から掛けられた格子状の網に絡まりながら天を目指しているのだった。
 他の家より少し高いところに建っているおかげで視界を遮るもののない空には真っ白な入道雲がもくもくと広がっていて、誰かが庭に水を撒いたのだろうか、むしむしした土の匂いがする。
 そういえば夏祭りがもうすぐだ。ここからなら花火もよく見えるだろうけど、人でごった返しているところでも、木戸川サッカー部のみんなで見た方がずっといい。和泉は今年も行くって言ってたな、もちろん俺も行くし、貴志部も、総介も快彦と一緒に、他のみんなも来るだろうし、楽しみだな、などと考えていると、和泉が戻ってきた。
「用事、なんだったんだ?」
「母さんがさ、今日もおつかい頼むって」
「じゃあ、またずぶ濡れになって帰って怒られる前に早く行った方がいいな」
 ついさっきまで真っ白だった入道雲が色を黒く変え始めているのが見えた。土の蒸したような匂いがしたのは、誰かが庭に水を撒いたからじゃなくて、もうどこかで雨が降っているからなのかもしれない。
「そうだね、跳沢もまた帰り遅くなって怒られないようにしないとな」
「うるせえよ」
 そう軽口を叩きながら帰る支度をする。お邪魔しました、と言って和泉家を出てもそのまま真っ直ぐ自分の家に帰るなんてことはしないで、和泉のおつかいにちょっとだけ同行する。
「やっぱり、明日机出しとくよ」
「だから、いらねえって」
 もうじき夕立が降る街に二人の楽しげな声が響く。二人とも今日も昨日と同じように親に怒られるのはもはや避けられない事実だと言えよう。


きみが熱帯の中心


title by エナメル


2019.8.19


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