〈7〉

政宗くんが去った後、文机の傍に行ってまた楽譜の勉強を再開した。気になるところに丸をつけたりしながら、その曲を口ずさむ。
終盤に差し掛かったとき、どこか慌てた様子の佐助さんがやってきた。
「晴ちゃん、独眼竜と会ったの!?」
がしっと両肩をつかまれた。わりと本気な目だったので逃げることは難しそうだと早々に諦める。
今日は佐助さんは幸村くんの部屋で政務の手伝いをしているから来れない、と冴さんが言ってたのを思い出す。ということは、ここで出会った政宗くんは、幸村くんのところに行ってわたしのことをしゃべったのだろう。で、それを聞いていた佐助さんが真偽を確かめるためにやって来た、と。
隠してもしょうがないので素直に頷いた。
「はい、お会いしましたよ」
「ええー…報告ないんだけど。お冴はどこ?」
「冴さんは…」
わたしの不注意でたぶん彼女の良心をえぐってしまったので、顔を合わせるのが気まずいらしく朝以降は姿を見てません。
なんてさすがに言えないので、あいまいに笑って誤魔化した。
「なんだかお忙しいみたいで。八つ時に来るって言ってたので、もうじきかと」
「ほんと?なにやってんだか…ごめん、待たせてもらうね」
「どうぞどうぞ。お聞きになりたいこともあるのでしょう?」
わたしに、と言外に含ませて笑えば、佐助さんは呆れたようにこちらを見た。
「ときどき妙に鋭くて俺様やんなっちゃう。この分だとお冴にも何か言ったんじゃねぇの?」
「……あはー」
「あはー」
「……言いました。はい。たぶんそれで気まずくて冴さんはわたしを避けてるものと思われます」
「それなら責めないけどさ…忍としての仕事は果たしてほしかったなぁ」
ちょっと遠い目をして佐助さんは呟いた。本人は気がついてないのか、あっさり零された失言をためらわず拾ってみる。
「やー、普通の女中さんじゃないとは思ってましたが、やっぱり忍なんですね」
「……あはー」
「あはー」
「なーんか晴ちゃんには面白いくらいしゃべっちゃうなぁ」
「褒め言葉と受け取っておきます」
苛立たしげに頭をがしがしかき回す佐助さんに、悪いことしたな、と少し罪悪感が生まれた。なんかすみません、と言えば、「気にしなくていいよ。今のは完全に俺様の落ち度だ」と、彼はへらりと笑う。
なんだかすごく申し訳なくなってきたので、立ったままだった佐助さんに座布団を提供してみる。
「お、ありがと。じゃーごめん、ちょっと脱力しちゃったから最初から本題。どうして竜の旦那に話しかけた?」
座布団の上に胡坐をかいた佐助さんと真っ向から向き合って、質問タイムスタート。
「英語、南蛮語ですか。あれが懐かしくて。話しちゃダメって言われてなかったので話しかけてみました。すみませんお母様」
「素直なのはとても良いことです、お母さん嬉しい。……乗せないでくれる?」
「すみません」
「それで、竜の旦那と何しゃべったの?」
「軽く世間話を…」
ふよ、と視線をめぐらせば、佐助さんが呆れたようにため息を吐いた。はぐらかそうとしてもダメだって、と言われてしまったので、渋々口を開く。
「…すみません」
「何が」
「せっかくお二人が考えてくださったのに、無駄にしてしまいました」
こちらでのわたしの身の上の設定を、せっかく考えてもらったというのに。それは当然、真田幸村の、武田の、甲斐の評判に傷をつけないための設定ではあるけれども。でもそれ以上に、この世界の異物であり、ありすぎる知識を悪用されかねないわたし自身を守るためのものであったことなんてわかっていた、それなのに。
「ごめんなさい」
彼らの好意を無下にしてしまった。頭を下げて、というよりはうなだれて、もう一度ごめんなさいと呟いた。
どれほどそうしていただろうか、頭上からため息が聞こえてきてわたしは身体を強張らせた。
「どうせ嘘つくのが嫌だったんだろ?」
「さすけ、さん」
「どっかでボロ出されても面倒だしね。幸い詳細までは話してないみたいだし、竜の旦那も口外しないって言ってくれたから、今回はしょうがないな」
「…許して、くれるんですか」
上目遣いで伺い見れば、佐助さんは悪戯っぽく微笑んだ。
「うん。許してあげよう」
そのふざけた調子の物言いに、救われた気がして目を閉じる。ただし今回だけね、と続ける佐助さんに、小さな声ではいと答えた。
「ん、よし。じゃあこの件はこれで終わり!お冴も来たみたいだし」
ちらっと廊下に目をやった彼の言葉に、思わず腰を上げた。しかし踏み出そうとした足はピクリとも動かない。中途半端な姿勢のまま襖を見つめていれば、諦めたようなため息とともに冴さんが現れた。
「冴、さん」
「お八つの時間でございますよ、晴さん。……なんて顔してるんですか」
お菓子とお茶の乗ったお盆を傍らに置いてその場に座った冴さんが、ひどく優しく微笑んだ。
「今朝は申し訳ありませんでした。あなたの心も慮れずに」
「…っち、ちが、冴さん、ちがう、違います、わたしがばかだったんです」
ばかで、ガキで、どうしようもなくて。いくら心が不安定だからって、あんな言い方したら傷つけてしまうことはわかっていたはずなのに。結局わたしは自分ばっかりで、なんにも見れてなかったんです。
「ごめ、なさい」
ごめんなさい、ごめんなさい。馬鹿の一つ覚えみたく繰り返すわたしの頭を、冴さんは優しく撫でてくれて、私も悪かったのです、と苦笑混じりに呟いた。その声が優しすぎて、目頭が熱くなる。思わずぎゅうと抱きつけば、冴さんは戸惑いながらも手を回してくれた。
「はいはい、そんじゃ俺様は仕事に戻らせてもらうよ。ちゃんと和解しといてね」
黙って見ていた佐助さんが、くすりと笑みをこぼして立ち上がった。言葉通りに廊下へ向かう彼をわたしは焦った声音で呼び止めて、それでも何を言うべきかわからなくて、無意味に彼の名前を繰り返した。
「佐助さん、佐助さん」
「なーに、晴ちゃん」
テンパるわたしの背中を、冴さんが撫でた。優しい温度にほっとして、落ち着いた頭で考えて、一番言わなくちゃいけない言葉に思い当たった。
涙を拭い、居住まいを正し、わたしは深く頭を下げる。
「ありがとう、ございました」
ごめんなさい、は許しを乞う言葉だ。許してくれた佐助さんにそれを繰り返してもしょうがない。
だから、精一杯の、感謝を。
「どういたしまして」
優しい笑顔のまま頷いて、彼は今度こそ去っていった。


     ×××


(さぁて、こりゃもうばらしちゃった方が楽そうだな)
出来ないけど、と母屋に向かいながら、佐助は小さくため息をついた。納得してもらえるかは微妙だが、政宗には用意してあった設定を話すしかあるまい。帰りたい、と泣きそうな顔で夜毎嘆くあの少女を、危険に晒すのは不本意だ。
面倒くせぇなぁとぼやきながら、主とその好敵手の待つ部屋へ入ると、
「佐助、すまない」
唐突に謝られて面食らった。え、うそ、もうばらしちゃったとか、ないよね、さすがにアンタそんな馬鹿じゃないでしょうよ?
まさか、と思いつつも傍らに膝をつく。
「設定を無駄にした。が、話せるものではないことは納得してもらった故、許してくれ」
「………あ、アンタなあ!」
最悪の事態だけしか防げていない報告に、目の前が真っ暗になった。どいつもこいつも、人の苦労を簡単に水泡に帰しやがって、ガンガン心労増やしやがって、いい加減俺様も禿げるっつうの。
そんなことを口に出せるわけもないので、大きなため息をついて佐助はうなだれた。
「んで、どうすんの、処遇」
「特に構わないだろう。変わらず過ごしていただく。釘は刺したか?」
「一応な。竜の旦那の方は」
「接触はいたしかたない。某を通してもらうことで合意した」
「了解っと。お冴にも言っておきますよ」
面白いものを見るような顔でこちらを見ていた政宗は、ため息をついた佐助を見やって肩をすくめた。
「面倒な拾いモンしたな、おめーら」
「輪をかけて面倒なことにしてくれちゃう竜の旦那とかいるしねぇ」
「口外しねえって。外向きにゃ設定通してやるよ。ま、本人から直で聞く予定だしな」
「……しばらくは諦めてくださいよ」
「Of course.無理強いはしねぇ」
知り合ったばっかだしな、と笑う政宗にとりあえず胸をなで下ろす。ちょっとまだ釈然としないが、とりあえず最悪の事態だけは防げたんだから良しとするしかあるまい。
「明日はささやかながら宴を催すつもりでござる」
「あ、悪いな。こっちからも色々持ってきてるから、好きに使ってくれ」
「かたじけない。では、本日はごゆるりと休まれよ」
「おう。Good night,幸村」
主の部屋から退出し、政宗を客間へと案内する。その途中で政宗はくすりと笑みをこぼした。
「……囲い女かとも思ったんだがな」
彼の言わんとするところを察して、佐助も苦笑をもらす。
「女っ気がないのは相変わらずですよ。本人もまずいとは思ってるみたいだけど…今は鍛錬の方が面白くてしょうがないらしい」
「健全もここまでくると、って感じだな。まぁ、しばらくは情勢動かねーだろうし、急ぐこともねえだろ」
「そうなんだけどね。……もしかしたら、彼女が少しでも変えてくれるかもしれないし」
「HA!相変わらず打算的だな」
「俺様いちおー忍ですからねー。…おっと、ここだよ。それじゃ竜の旦那、おやすみ」
「おう。Good night」
政宗はひらひらと手を振って襖の向こうに消えた。閉められた襖から目を離し、佐助はあくびを噛み殺して大きく伸びをした。
「……可哀相だけど、さすがに宴には参加させてあげられないなあ」
彼が、ぱっと体勢を戻したと思ったら、暗い廊下には黒い羽だけが残されていた。
日は落ち、青空にぽかりと浮かぶ白い月が、輝きを増す。



To be continued...


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