ミルクスープ





かなり甘い




午後3時。終業のチャイムが鳴った。
綱吉は普段ののろまな動作からは考えられないほど俊敏に、鞄の中に教科書を仕舞い込む。
首だけ振り向かせて、
「じゃあね、獄寺くん、山本!」
と言って、駆け足で教室のドアを潜った。
獄寺と山本は顔を見合わせて首を傾げた。



靴箱から正門まで、およそ100メートル。
半分が下り坂である。
学生鞄を肩からぶら下げて、ブレザーを肩から落としながらも全力で走る。下り坂に差し掛かった。
(っうお?!)
直感的に危険だと悟った。下り坂で足が思うように制御できない。ガラガラと膝が崩れ落ちるような感覚を感じ――
(ひいいい!!こける!)
足が縺れたのが分かった。
顔面強打すら覚悟したし、諦めの準備は万全だった。目を伏せて衝撃に耐えようとした。
(――ッ!)
しかし何故か、衝撃はお尻に――綱吉は尻餅を付いた。
「えっ?」
恐る恐る目を開けると、正門前で座り込んでいた。
「まあ、ギリギリセーフにしてあげます」
綱吉は瞬きをして、正面にしゃがみ込んだ少年――物騒にも槍を持っている――を見て、困ったように微笑んだ。
「ありがと」と小声で言ったのち、少年の頬に優しく口づけた。
少年は顔を赤らめて、肩からずり落ちたブレザーを正してやる。立ち上がり綱吉に手を差し出した。
「立てます?」
「うん。大丈夫だよ」
と言いつつも、綱吉は少年の手を借りて立ち上がった。綱吉より少年の方が、頭一つ分大きい。
「じゃあ行きましょうか。デート」
少年は綱吉の手を持ったまま、にこやかに誘った。
綱吉も恥じらうように笑って、小さく頷いた。
六道骸。綱吉の守護者であり、恋人である。



今日のデートを誘ったのは骸だった。遅刻したらクレープを奢る約束を決めたのも骸だった。だが妥協してくれた。ささやかな優しさに、綱吉は胸が温かくなった。
好きだという確信が、なお強くなる。
温かな気持ちのなかで、沢田家とは別の方向、商店街に向けて歩きだした。
「なあ骸、さっきのどうやったんだ?」
「君がこけた時ですか」
頷いて、先刻のアクシデントを想起する。
足が縺れ、躓いて、体を投げ出した。しかし着地したのは門の前。骸が、何らかの能力を使ったのは間違いないと思っていた。
「だって、気付いたら正門前に居てびっくりしたよ」
骸は腕を組んで僅かに思案したが、
「まあ、空間をちょちょいと……」
とはぐらかした。
「ちょちょいと弄ってああなるのか普通!」
お得意の直感で説明を面倒がっているのだと気付いたが、骸は哄笑した。
「良いじゃないですか、君に怪我がなかったんですから」
綱吉の頭を一撫でし、綱吉も満更でもない顔で骸を見上げる。
「あ、ありがとう……」
「君も愛されてますよねえ…、この僕に。嬉しいでしょう?」
骸は恍惚と言ってのける。
綱吉は頷きそうになって、かぶりをふった。
「自分で言うなよ!っていうか、好きじゃなかったらデートもしないっていうか……」
無意識に呟いてしまった言葉に、ハッとした。否定する間もなく、骸は笑んだ。
「ええ、綱吉くんは僕のだけのものです」
さらりと言われて、綱吉は頭から蒸気が抜けたような気がした。顔が熱かった。
「言ってて恥ずかしくないの……そういうの」
綱吉が肘で骸を小突いた。
つられて骸も顔を赤くした。
「き、君こそ、恥ずかしいと思わないんですか。本当に小恥ずかしい人ですね」
「お前がだよ!」
二人して照れて、何も言えなくなってしまう。これ以上の攻防を繰り広げても恥ずかしさが余計に募るだけである。
顔を背けあった。沈黙が流れて、足音だけがついて来る。
無言で十歩進んで、突然、骸が止まった。綱吉の肩を掴んで振り向かせて一言。
「キスしてください」
綱吉は目を丸くして、考えるより早く断った。
「や、やだよ?!外だし!」
骸が真顔なのに戦いた。肘を張って距離をとろうとしたが、骸は顔を近づけて耳に唇を寄せる。
「さっき頬っぺたにしてくれたじゃないですか」
「あれは周りに人が居ないのが分かってたから……」
「いませんよ、人なんて」
流されやすい自覚は、綱吉にもあった。しかしそれ以上に、骸は、綱吉の性格を利用するのが上手かった。
それから、骸は綱吉が本当に嫌がることはしてこない。
(骸は、俺が好き、なんだよな?)
半ば自問自答だったが、視線を通じて生まれた以心伝心のような現象のためか、骸は頷いた。
多分、もう何をやってもダメなんだろうなと思った。
何をやっても、恥ずかし過ぎる。
綱吉は骸に弱かったし、骸も綱吉に甘かった。所謂、惚れた弱みというやつで。
好きって、なんだったっけ?と、忘れてしまいそうになるほど、当たり前になりつつある恋慕。
綱吉はぎゅうっと目を閉じて、爪先立ちで顔を差し出して、唇に当てた。一瞬である。
しかし、骸は満足げにクフフと笑って、唇に人差し指の第二関節を押し当てた。
「綱吉はマシュマロですね。どこもかしこもふわふわしてて」
普段なら全力で抗弁しただろうが、生憎と今の綱吉にはそんな抵抗力は残っていなかった。
骸に背を見せながら、一人でざかざかと早歩きで進んでいく。
骸は綱吉の背中を見て、小さく、ふうと息を吐いた。
(綱吉は可愛い。仕草や言動、外見すら)
骸は面食いな自覚もなくはなかったが、しかし惚れたのは綱吉の人柄である。
優しくて厳しい、無駄に許容範囲の広いおおらかな性格。そのくせかなりずぼらで神経質。少年らしく多感な時期にある。
(彼はありのままが一番美しい。そんな綱吉くんが好きだ……、が)
綱吉はあまりにも奥手かつ純粋である。真水か宝石の原石のようだと言えば聞こえは良いが、度が過ぎた。骸と綱吉の関係は、未だキス止まりである。
(僕だって多感な時期なんですよ、分かってんですかねあの子は…!)
大分小さくなってしまった背中を追い掛けるために、地面を蹴った。



後ろから走って来る靴音が聞こえて、綱吉はぎくりとして振り返った。
「綱吉くん、待ちなさい」
骸が存外優しく呼び止めたので、綱吉は大人しく足を止めた。
「君を傷付けたなら謝ります。だから、またデートしましょう?」
優しい声色を心掛けて、骸が言う。
「……無理」
僅かな逡巡を含んで、綱吉は首を横に振る。
「どうして?僕とのデートは嫌ですか?」
「そうじゃないけど……もう、色々、無理っていうか……」
「綱吉?」
綱吉の斜め後ろに立って、頬に手の平を添えると、視線が繋がった。
綱吉はオッドアイを見た瞬間、真っ赤な顔で早口にまくし立てた。
「だっ、だから、もう恥ずかし過ぎて……お前と居るとおかしくなりそうで!これ以上好きになるのが怖いんだよ!」
骸は数回、瞬きをした。口が「は?」というような間抜けな形になっていたが、骸も綱吉も、そこまで気が回らなかった。
「お前は恋愛とか経験あって余裕あるのかもしれないけど、俺は初めてなんだよ!色々、恥ずかしくても堪えてきたけど、ハードル高いんだもんお前!もっと優しくしてよ!」
綱吉がひとしきり息を吐ききり、肩を上下させる。責めるような目つきで骸を見つめた。
目の前に居る小さな少年を見下ろして、骸は知らず知らず生唾を飲んだ。
「綱吉くん」
「なっ、なに」
骸が綱吉の両肩を掴んだ。
綱吉は心臓がびくっと跳ねた気がしたし、実際、全身が硬直した。
動けない綱吉の肩に額を宛てて、骸が低く呻いた。
「好きです」
「なっ!なっ、ん!!」
肩に置いた手は、ゆっくりと首後ろに回って、綱吉を抱きしめる。
「キスしたい」
(っひいいい〜!!!こ、こういうの、が!!!)
耳に吹きかかる骸の吐息が熱っぽい。
下り坂で足が縺れる直前、膝が崩れ落ちたのと同じ感覚を味わった。へたりと足を折って、地べたに座り込んだ。骸も一緒に屈んだ。
ふと、綱吉は思い出す。
(さっき頬っぺたにしたときと、同じ、体勢だ……)
細部の違い――骸の腕が首に回っている――はあるが、綱吉は謀らずもどきどきした。
「む、むくろ」
肩に埋めていた顔を上げて、骸は綱吉を見つめる。
「別に君を困らせたい訳じゃない。大切にしたいと思っている」
「うん……」
骸の真剣な面持ちに、綱吉は視線を下にずらした。決着を付けるのを嫌う、綱吉の癖だった。
「君が嫌がることはしたくないし、するつもりもない。嫌ならちゃんと言ってください」
首に回った腕が少しだけ緩んだ。
それだけで、綱吉は弾かれたように顔を上げる。
「あ、あのね、骸。恥ずかしいとは言ったけど、嫌なんて……思ったことない、よ」
綱吉の告白に骸は苦笑して、許可も取らずに唇を奪った。舌を潜らせたが、抵抗が無かったので快く堪能した。
(ホントに――身勝手な生き物だ)
思いながらも、言いようのないほどに燃えるものを感じ、目の前の甘美なる快楽に全て托すことにした。
流されているのは――実は、綱吉ではなく自分なのかもしれない――そんなことを考えたが、灯った熱には勝てなかった。



「堪え性がなさすぎですよ綱吉くん」
「だからこういうの慣れてないんだってば!」
「いえいえ、可愛いので慣れなくていいです」
軽口をたたき合う二人は、来た道を引き返していた――骸が綱吉をおんぶして。
骸にとっては「たかがキス」、綱吉にとっては「されどキス」。唇を離すと、綱吉はすっかり腰が抜けていた。
「キスくらいは慣れてくれてもいいんですけど。先が思いやられますから」
「先?なんのこと?」
骸はくふふふといつもより陽気に笑い、綱吉は悪寒を感じた。「聞きたいですか」と軽い調子で聞かれたが、頭を振って応えた。骸は残念そうに、そうですか、などと言ったが、綱吉は聞かなくてよかったなと視線を泳がせた。
「まあとにかく、僕たちなりに、少しずつ進んでいきましょう」
「……いつか、恥ずかしくなくなるかな?」
「だから君はそのままで良いと――いや、積極的な君も好きですよ」
骸は足を止めた。首を少し傾けて、綱吉に頬を差し出す。
流石に、骸の言いたいことは分かった。
綱吉は諦めたように溜息をつく。
「やっぱり、お前、恥ずかし過ぎ」
一拍遅れて、ちゅ、と音がした。




2011.3.13